『罪と罰』(ドストエフスキー) [書評]
『罪と罰/ドストエフスキー』(光文社古典新訳文庫)
久々のロシア文学、それもドストエフスキーです。
『カラマーゾフの兄弟』を彼の最高傑作とするならば、こちらは売れ行きNO.1と申せましょう。
なにゆえ売上NO.1なのかと考えるに、若さゆえの「罪」と、そこからの「救済」という永遠のテーマが、一見ストレート(読み進むとそうでもない)に描かれているからなのではないでしょうか。
そうは言ってもやはりドストエフスキー、一筋縄では行かないのですが・・・。
STORY:貧しい大学生のラスコリニコフは、故郷の母親が送ってくれるわずかばかりの仕送りを頼りに暮らしていた。生活はいよいよ苦しくなり、大学へも徐々に足が遠のく始末だ。
ラスコリニコフは生活に窮し、宿の近くで金貸しを営む老女から借金をする。しかし返済の期限が迫っても返す当てなどない状態だ。返済を迫る嫌味な老女にさえ、金の為に頭の上がらぬ自分が惨めに思えてしょうがない。
そんな時、《未来につながる一つの才能(自分のこと)を世に羽ばたかせるためには、くだらない存在(金貸しの老女)を無にしても構わないという思想》を思いつき、それが頭を離れなくなってしまう。
ラスコリニコフは外套の下に斧を隠し持ち、老女のいる部屋に向かうのだが・・・。
結果的にはラスコリニコフは誰にも目撃されることなく老女殺害に至るのだが、犯行を成功させるために殺害する予定にない老女の義理の妹で、良心的なリザヴェータの命まで奪うことになってしまう。彼女は老女とは正反対に慎ましくお人好しな女性で、殺されていいような存在などではない。
ラスコリニコフは、老女を殺害した罪の意識は気薄なれど、リザヴェータを手に掛けてしまったことに対しては著しく後悔の念に苛(さいな)まれる。殺していいのはあくまで負の命だけだったはずなのに・・・。
この物語の本筋は、貧しいがゆえに娼婦となり、家族を支えねばならなかったソニアの、そんな境遇にありながらも消えない宗教心に触れ、ラスコリニコフが自首してシベリア送りとなるというもの。
しかしながら、学生時代に読んでいるとはいえ、数十年ぶりに読み直してみると、そんな大筋よりも、物語に唐突に割り込んで来る2人の登場人物が気になってしかたがなくなっていた。
一人は予審判事のポルフィーリー、そしてもう一人が、謎の人物、スヴィドリガイロフ。
この2人はある意味対照的な位置にいるのだが、主人公にかかわる人物の中でも異質な印象を受ける。
特に全3巻の3巻目のほとんど物語のクライマックスあたりで、主人公以上にページ数を割り当てられているのが、何とも不可思議なのだ。
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まずポルフィーリー。ラスコリニコフの学友ラズミーヒンの遠縁に当たる。
老女殺人事件を捜査する一人として登場し、最初からラスコリニコフが犯人だと確信している。性格は温厚だがどこか執拗なところがあり、ふいにラスコリニコフの前に現れて事件の話をしたり、貴方を疑ってなどいないと口では言いながら、密かに裏を取ったりと、現代に例えるなら刑事コロンボタイプか。
物語の終盤、ポルフィーリーはラスコリニコフに対して、はっきりと、貴方が犯人です! と告げる。別の人間が自分が犯人だと言い張って自首したことにより、事件は収束していっているにもかかわらず。そして自首して出ることを申し渡す。
不思議なのはラスコリニコフとの会話でポルフィーリーは自分のことを、もう終わった人間だと突き放したような言い方をする点で、これは彼個人のことを語っていながら、実はこれから激動するロシアそのものを代弁しているかのように受け取れる。そんな彼はラスコリニコフのことを、"これからの人間" と呼ぶ。
許し難い過去を背負っていようが、それを悔い改めれば、未来は開かれるという言葉も同様、これからのロシアの未来についてなのだと思われる。
ならばドストエフスキーはポルフィーリーに、ラスコリニコフについて語ったと同時に、ロシアという国の未来について語らせたとも言える。
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そしてポルフィーリー以上に謎めいた人物として描かれるのがスヴィドリガイロフ。
彼の場合、ラスコリニコフが犯した老女殺しには直接かかわってこない。ラスコリニコフと同郷の紳士であり、ラスコリニコフの妹ドゥーニャに言い寄るいけ好かない人物として登場する。
なかなかの美貌であるにもかかわらず、その容姿はどこか見る人を不快にさせる説明されているように、人としての "何か" を著しく欠いた人物なのだ。
噂ではスヴィドリガイロフは金持ちの年上の女性と結婚し、密かに毒を盛って殺害したらしい。それが事実かどうかは明らかにされてはいないものの、金に物を言わせ、まだ年端もいかない少女との結婚を画策し、母親を騙して婚約を済ませてしまうという不道徳な行為に出るあたり、かなりの胡散臭さを漂わせている。
ドストエフスキーは小説中に、しばしば幼児虐待についての記述をはさみ込む。どうやら<悪>と<幼児虐待>は太い線で結び付けられているようで、それからしてもこのスヴィドリガイロフは、まさに悪漢の系譜そのものだろう。
実際スヴィドリガイロフ自身も小説の中で、幼い少女との性交に心躍らせるようなことを語る。
結局スヴィドリガイロフはドゥーニャに受け入れられず、(それだけが理由ではないだろうが)死を選び、滅んで行く。
破滅の間際に見る夢は、ぐしょ濡れになった5歳の少女の服を脱がせ、ベッドに寝かしつける。寝入った少女の赤みが戻った顔を眺めるうちに、淫蕩な娼婦の笑みとダブって見え、うろたえる。そして、その後のピストル自殺・・・。
スヴィドリガイロフもまたポルフィーリー同様、老女殺しの犯人がラスコリニコフであることを知っていた。
こうして並べてみると、一見それほどラスコリニコフと深い関係にないポルフィーリーとスヴィドリガイロフが両極端の位置、すなわち<善>と<悪>を演じているのが分かる。それを踏まえたがゆえにラスコリニコフの自首が、よりいっそう印象深く読者に届くのである。
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シベリア送りになってからのラスコリニコフと彼に付き添うソーニャの姿は、この重苦しい物語の最後の最後になって差す一筋の光明だろう。まるで長らく立ち込めていた黒雲の間から、光の筋が地上に届くようなとでも言えばいいだろうか。
のどかとも取れるこのエピローグは、やはり文学史上稀に見る傑出したエンディングであると思う。
すべてが「浄化」された後のすがすがしさ・・・。それは一陣の風にも似て、読み終えたすべての読者に与えられる「美」だった。
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