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かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと━(マームとジプシー) [演劇]

 第56回岸田國士賞を受賞。一躍マームとジプシーの名を世間に轟かせた作品。
 今回はリニューアルしての再演。見逃していた者にとってはありがたい再演だ。

 内容は、<家>にまつわるあれこれ・・・・。

 思い返せば、マームとジプシーは、<家族>、家族が集まる<家>、<地方都市>に、ずっとこだわっているように思える。それは喪失感と言い換えてもよい。
 「ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。」などは、おばあちゃんが住んでいる古い実家が取り壊される話だった。この「かえりの合図~」でも、長男が一人で住んでいる実家が取り壊される話で、引き続き物語の重要なベースになっているのがわかる。

 時間もそれと同様に重要なポイントで、20年の歳月が流れているのだが、それも時間の流れた通りではなくて、一度解体され、また、別の順番で組み立てられている。その時間の集積があればこそ、<家>の持つ意味合いというか濃度の濃さが際立つ。執着するには時間が必要なのだ。
 家にとどまる者、去って行った者、お互いに等しく時間は流れる。たとえ離れ離れになったとしても、<家>という核が消えない限り、そこを起点として、思いはつながる。
 だが、仮に<家>がなくなったとしても、新たな起点を作りだし、関係は続くのだろう。

 再演の前を観ていないので、今回の上演が先とどう変わっているのかはわからない。それでも舞台に登場する<木の枠>は、最近登場し出したものなので、きっとこれはなかったに違いない。ある特定された場所を表現するにはなかなか便利な装置で、組み合わせ自由なところがアイデア。

 ここ数作を観て、表現方法としてはほぼ固まってきたようにも思えるが、さて、マームとジオプシーはこれからどんな風景を観客に見せてくれるのだろう?
 
 
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荒野の家(水素74%) [演劇]

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 雪にまみれながら、目指せ東大!(駒場前)
 ぬかるみに足を取られ、半ば溶けて氷水状になった道を抜け、そこにあるのは、こまばアゴラ劇場。
 途中、古本屋に立ち寄ったり、100円のカニクリームコロッケを頬ばったりしながらも、やっと到着。まるで富士山頂を目指すクライマーのよう。おおげさですが。

 久しぶりのアゴラ劇場。待合室のストーブがありがたいです。
 演劇関連の書籍を読みながら、会場を待つ。

 「水素74%」という劇団は初めて。
 チラシを読むと、早稲田大学⇒青年団⇒水素74%と、青年団の若手演劇人育成システムの流れの劇団なのだと想像出来る。ただし、劇団員を持たないとあるので、ひとり劇団ユニットなのですね。

 イープラスでの先行予約特典、オリジナルエコバッグもいただいて、ちょうどA4サイズのチラシが入るので便利かも。

 『なにもかもなくなってしまった荒野の中で人はどう生きるのか』

 というキャッチコピーに釣られて観に来たわけだが、家族を描きながら、家族を描けないというジレンマをどうするのか・・・。
 コミュニケーション方法は増え、時間や距離の制約からもほとんど解放されつつある時代に、それでもやっぱりというか、それだからこその<ディスコミュニケーション>という、半ば泥沼化した命題にどう向き合うのか? これは多くの劇団が取り組む<命題>でもあり、興味が湧く。
 
 携帯電話~メール~フェイスブック~ツイッター~ライン、、、手段は増え、増えた分だけ関係が希薄となる、予想外な反比例現象は、いつまで経っても収束せず、逆に拡散するばかりだ。散弾銃での100発より、大砲1発の威力にこそ意味があったと、いまさら言ったところでもう後戻りは出来ない。

 30歳過ぎの引きこもりの息子、息子をでき愛する母親、家庭を顧みない父親、結婚したはいいが、半年も経たずに帰って来た娘。
 そんな<家族>が、同じ屋根の下で、近親相姦的愛憎と自己中心的な感情で、けっきょく身動き出来ず、また、現状に不満を持ちつつ、変われない、変わりたくないのか、せいぜい半径10mあたりで呼吸をしている息苦しさが嫌だ。

 中盤以降はそこに娘を連れ戻しに北海道から出て来た旦那と、息子を更生させるために訪れた××××スクールの屈強なふたり。そして、水商売をしている自分の代わりに、で死んだ旦那の父親の看病を頼みにやって来た隣人。
 みな自分勝手で、どいつもこいつも、まったくこいつらは! と、一喝したくなってしまう、じんわりと嫌な登場人物は、案の定、物語後半になっても、まったく性格が変わらず、やっぱり変な奴のままだ。変われない(そもそも自分が変だという自覚がないのだから変わりようがないのだった・・・)なら、このままで、新しい家族を、周囲とも新しい関係を模索するしかないだろうが! そんな作家のネガティブパワーに、観ていて気持ち良くはないものの、なぜか納得させられてしまう。
 現実にもけっこうこういう人たちって存在するしさ・・・・・
 そんな心のつぶやきも。。。

 我々は今、未曽有の岐路に立っているのではないか?

 過去の常識の通じない、新しくも、くそったれな時代の。

 さて、どうしますかね?
 (答えのないまま、この文章も終わってしまう・・・・・)

 
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『モモノパノラマ』(マームとジプシー) [演劇]

 演出の藤田貴大は絶対理数系だと思う。
 マームとジプシーの舞台での役者の動きを眺めるたびにそう思う。まるで幾何学模様のパズルのように、形の異なる複数のピースをピタリと枠に収めるような緻密さに驚かされる。
 今回は木の枠を使い、場所を作り出すことをしていて、これがたえず移動したりしていて、言葉で説明しづらいのだが、これまで以上に<コンテンポラリーダンス>的な身体の使い方が行われている。

 「モモノパノラマ」は、友達の家で生まれ、引き取られて家族の一員となったネコが死ぬまでの話だ。
 もちろん、ネコのモモは主人公ではなく、モモの記憶とともに呼び起こされる、マームとジプシーが繰り返し描く、家族や友だちとの関係が主題となる。
 その中でも、姉と妹の愛憎入り混じる切っても切れない<呪縛>と言えば言い過ぎかもしれないが、濃密な関係がここでも核となる。
 幼い頃は、ほとんど同一化と言っても良いような関係が、しだいに自我を意識し出す頃から反発しあい、相手を否定しようとする。それでも<血>の関係は、近くにいればうっとうしいし、いなければ寂しいものなんかもしれない。

 舞台は東京からかなり離れた地方都市。
 この設定も過去にいく度も登場する、いわば定番。
 寂れた街への寂寥感を掻き立てるそれは、少年少女にとっては耐え難い<見えざる敵>と同意語だ。若き命=荒ぶる魂(ソウル)を蝕む<癌細胞>なのだろう。この設定も繰り返し描かれる重要なモチーフ。

 また、出演者がそれほど多くないにもかかわらず、群像劇を思わせる物語の多重性も、この劇団の特徴のひとつで、集約してしまえば姉妹の物語なのに、年に何度も生まれてくる子ネコを海に捨てる少女だったり、マンションから飛び降りて死んでしまう少女だったり、引っ越しが決まり、飼っているイヌが保健所に引き渡されてしまうかもしれない少女だったり、線路をどこまでも行こうとする少女だったりと、多くは語られないのに、反復する台詞とシーンによって、それぞれが忘れ難い印象を受ける。

 記憶、地方都市、姉妹、別れ、上京、里帰り、時間、寂しさ、ノスタルジー、十代
 これまで観てきた作品から共通したキーワードを抜き出すとこうなる。
 とどまる自分、行く自分、行ったこと、行わなかったこと、その分疑点で、出るはずもない解答を前に、悩み、たたずむ。それは十代だろうが、ボクのような中年だろうが、基本的にはなんら変わらない。だから、マームとジプシーの芝居は、若者でも大人でも、誰にでも共感を呼ぶのだろう。

 さて、次は何をしてくれるのだろう?


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『春よ行くな』(悪い芝居) [演劇]

 チャレンジ、ターイム!!!
 じゃないけれど、<知らないものに遭遇したい病>が、また心の中に充満して、で、やっぱり、知らない劇団の芝居に足を運んでしまったのだった。
 いつも通り、自分のカンだけが頼り。予備知識なしの、ぶつけ本番。まあ、いつものことで。

 下北沢の駅前劇場は、本当に駅前あるので、迷子にならなくていい。下北沢、凄く分かりづらくないですか?

 さて、『春よ行くな』という魅力的なタイトルから、想像するのはどんな話だろう?
 今の若者のディスコミュニケーション(ディスがついているから否定型ね)を題材にしているそうなので、じゃあ、「卒業」「就職」「別れ」とか、春=卒業みたいなイメージで話が展開するのかな、、、と考えていたら、ちょっと想像とは違っていた。

 三角形の舞台上ミニ舞台のような場所で、女と男(後にテレフォンアポインターの女とその上司だと判明)が、なにやら堂々巡りの話をしている。しかし、会話はすれ違い、お互いの言わんとしていることが上手く相手に伝わっていない様子がもどかしい。
 この時の役者の動きが独特で、クネクネ身体を動かしてみたりを絶えずしていて、演劇における新しい身体表現か? とか思って、楽しく観た。
 その女、天上は、彼氏が失踪し、どうやら捨てられたようなのだが、本人はいつか戻ってくると信じて疑わない。
 そこに、自分を捨てた父親を探す青年と、彼が信頼している、同じような境遇の人たちが集まる「会」の代表を務める男女が絡み、次第に洗脳されてゆく・・・。

 前半はなかなか面白いのだけれど、「会」の存在が出てきたあたりから、こちらの予想とは違う方向に話の舵が切られ、正直、そっちなの? と。
 そういう特殊な状況ではなくて、ごく日常生活の中で、昨今言われている、いつでもつながっていないと不安になる若者たちの心の闇みたいなものを描いてくれると期待していただけに、ちょっと肩透かしされたような気になってしまった。
 これだとサイコものになってしまうじゃないか、とね。

 それと、話が進むほど、最初の特異な身体表現が薄れ、だんだん普通の芝居になっていってしまっているのが残念。せっかく独自の表現なんだから、それがまずありきの上で、芝居の流れを作って欲しかった。
 現れない彼氏、「会」の代表を務める男が、逆にその彼と同化したり、気持ちは理解出来るものの、どこかですでにある話っぽくなってしまっているのも一考を要するかと。

 若い劇団なので、こんなへそ曲がりオヤジをあっと驚かせるような、若者にしか作れない芝居を望む。
 良いところもたくさんある劇団なので、ぜひ、もうひと皮むけて欲しいぞ!!!


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『cocoon』(マームとジプシー) [演劇]

 ゴジゲンが活動休止になった今、一番観たいという気にさせるのが、マームとジプシーだ。
 同じ場面を何度も何度もリピートすることによって、立ち現れる記憶の断片は、時に鮮明に、時に淡く、もろく、現れては消えてゆく。

 これまで演出の藤田貴大のオリジナル作品を演じてきた(『ああ、ストレンジャー』はカミユの異邦人をベースとしていたが)マームとジプシーが、マンガである原作の物語をかなり忠実になぞった話題作『cocoon』は、今日マチ子の描く戦争秘話で、透明感あふれる淡いペン画で描かれたそれを、舞台でどう表現するのか、興味の尽きない作品となった。

 戦争は日に日に激しさを増してゆく。
 そんな中でも、学校という特別な場所に守られた女子生徒たちは、明るく、無邪気に生きている。
 学校一のお洒落な子、何にでもすぐ熱くなってしまう子、みんなよりも背が高く、バレーボールでは強烈なスパイクを次々に決める子、等、女子生徒といえども、みな個性はバラバラだ。
 戦時下でも、それなりの平和を楽しんでいた彼女らに、看護学生として、負傷した兵士たちの手当をせよと言いつけられる。手当とは言っても、医師の助手として、手術を手伝ったりもしなくてはならず、負傷の激しい兵隊の手足を切断するような、残酷な現実に直面することとなる。
 アメリカ軍の爆撃も激しく続く中、豪を軍に明け渡さねばならなくなり、みんなは女教師の、海に行けばなんとかなるという言葉を信じ、とにかく走り出すのだが・・・・。

 舞台には一面砂が敷きつめられていて、海岸を模してある。
 そこに向かって走り、水に足がつかったら、また戻り、また走るという動作を繰り返す少女がいる。自分は走らなくてはならないとつぶやきながら。
 そこから時間をさかのぼって、学校での女子生徒たちのザワザワとした会話や授業の様子がうかがえる。さと子という子が狂言回しの役を演じ、それぞれの性格を観客に説明してゆく。その言葉使いは、現在から過去の記憶をたどったもので、目の前で繰り広げられている風景が、今のものではないことを深く印象付ける。
 砂浜のシーン、木枠を使ったシーン、少女に興味深々の20代後半の男の自己説明のような台詞、などは、これまでの作品で使われていた手法で、まるでマームとジプシーの過去作品を想い出しながらも、それらの集積といった印象を観る者に与えたりもする。寄せ集めではなく、あちこちに散らばっていた断片が、ここに集められ、完成したようなイメージ。

 生きたいと願いながらも、生き続けられなかった現実。
 この物語は戦時下での不幸な歴史、「ひめゆりの塔」として、今に伝えられている。過去の物語だ。しかし、演出は単に過去の悲惨な出来事を蒸し返すではなく、<今>というこの時間を意識の中にしっかりと置く。
 今は・・・2013年か・・・という台詞がさと子の口から洩れる何気ないシーンがあるのがその証拠。しかし、芝居の最後、さと子は銃弾に倒れる。ということは、このさと子はまた別のさと子なのか?

 それにしても、自分のまわりを見回せば、戦争と同じような状況が数多く存在する。連日ニュースで大きく取り上げられているエジプトの現政権と旧大統領派の衝突がある。イスラエルとパレスチナの和平交渉は、毎回頓挫、結局は争いが起きているし。
 誰もが<平和>を望みながら、いまだかつて一度も戦争がなくなったことがないこの事実。今も世界のあちこちで失われなくともよい命が失われているのだ。

 マームとジプシーは、こちらの期待の上を、ピョン! と、飛び越える。
 そして、「残念でした~」と、したり顔で微笑まれ、「また、次ね!」と、挑発してくるのだ。
 こちらもバカなものだから、「次こそ捕まえてやるからな!」なんて、ちょっぴり情けない捨て台詞を、つい、言ってしまうのだった。そして懲りずにまた劇場に・・・。
 
 
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「1995年のサマー・アンセム」(エマニュエル) [演劇]

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 マームとジプシー熱以来、またちょっと芝居を観たくなっているワタクシ。
 それも若い劇団がいいなあ・・・、とか、年甲斐もなく(?)思ったりしております。
 
 で、本多劇場のホームページを定期的にチェックしていて、気になったのがこの「1995年のアンセム」。
 それも劇団名が、なぜかエマニュエル!!
 なんで???
 とか、あらぬ勘繰りを抱いてしまいたくなる隠微な名前の由来はなんでしょう?
 中年のワタクシとしては、やっぱり「エマニュエル夫人」とかを想い出してしまい、ちょっと赤面。

 芝居の内容は、、、
 とある高校の野球部。甲子園を目指して、今日も練習に明け暮れる日々。
 いよいよ地区予選も始まり、3年の今年こそマネージャーを甲子園に連れてゆくと約束するのだが、試合当日、マネージャーは交通事故で他界。試合も大敗してしまう。
 後は卒業を待つばかりの野球部員のAとB、そして亡くなった少女の友達だったC。彼らは亡くなった少女を甲子園に連れてゆくため、卒業を拒否。
 それから18年の歳月が流れ、彼らは高校20年生になっていた・・・。

 ワタクシごとですが、この前、通勤電車の中で仲良くパンを食べていた熟年夫婦がいて、感心するやら呆れるやら。
 普通はどちらかが食べようとしたら、どちらかがみっともないから止めなさい! と、注意するんじゃないんですかね。それなのに、2人とも美味しそうに食べていて、日頃子どもたちに、そんなことしてはいけませんと言っている立場上、どうなんでしょうと。人は年を重ねることにより成長してゆくと、一応は思っていたのですが、実際は、バカはどこまでいってもバカなのか !? 人はかしこくなんかならないんだ・・・、と、悟りました。
 そんな経験があったものだから、人は年を重ねたからって、成熟や成長なんかしないじゃん! と、考えていたところ、たまたまこの芝居の内容を読んで、成長を拒否した物語として興味を持ったしだい。

 まあ、もちろん、この芝居は、こちらの考えている成長拒否とは別もので、後ろ向きの意味での<停止>ではなく、死んでしまった女子マネージャーを甲子園に連れて行ってあげたいとの強い思いからの<停止>。
 それでも、10年過ぎ、18年が過ぎた頃には、野球部のお荷物となり、監督(もと同級生!)からも退部を勧められたりもする。試合にも年齢がネックになって出場出来ないし。だけど、彼らはめげない。一瞬、もうそろそろいいんじゃないの? と、頭をよぎることはあっても、突き進むのみ。あくまでポジティブなのだ。

 思えば、損得勘定抜きで、物事を信じられたあの頃、ボクたちは幸せだったのかも。あれから何年、いや、何十年が経ち、多少の分別がついた分、幸せに近づくことが出来たのか? もしかしたら遠ざかっているのか? なんかよく分からない。

 10代が美しいなんて、誰にも言わせない!!
 というセリフをどこかで目にしたように記憶しているが、現実はそうだったかもしれなくても、やっぱり美しかった・・・ことを、むげに否定しまって良いものでもないだろう。

 とりとめのないことを整理もせず記した。
 芝居は時にバカバカしく、時に感傷的で、でも、ノスタルジックでもあり、思わぬ拾い物となった。
 エマニュエル、第3弾も期待してます!!
 

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てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。~(マームとジプシー) [演劇]

 横浜で観る芝居。
 急な坂スタジオプロデュース、マームとジプシーの新作。
 正式タイトルを、
 「てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて」
 ・・・と、いう。

 横浜中華街を散策し、山下公園へ。


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 公園到着後、ぐるりと周囲を見渡し、1枚。

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 それから関内駅の反対側に回り込み、吉田町にあるはずの十六夜(いざよい)吉田町スタジオへ。
 とは、簡単にゆかず、立ち往生。
 近くの交番に駆け込み、婦警さんに尋ねるも、無線で呼び出しされ、そこを離れる。なんでも駅前でケンカがあったらしい。婦警さんもたいへんなのだ。
 地図で教えてもらったあたりを散策するも、やっぱりわからず。
 今度は急な坂スタジオのスタッフと携帯での誘導で、やっと会場にたどり着いた次第。そもそも看板出てないし。

 会場は10畳ほどのフリースペースで、中央に柱がドンと立っている。
 そこを囲むようにして客席が設置されている。満席でも50人ほどなので、役者の息づかいもはっきり聞き取れる距離。
 どのような会場でも、変幻自在に対応してみせるマームとジプシーなのだった。
 今回の芝居は3パターンあり、一人づつ人数が増えてゆくという趣向。ボクが観たのは一番人数の多い(6人)バージョン。

 マームとジプシーの芝居を説明するのは難しい。起承転結といったような明快なストーリーではないからだ。物語を語るのではなく、人の想いを語る芝居とでも呼ぶべきか。

 捨て去ったはずの故郷は、しかし、心の奥深くに今でもしっかりと存在し、忘れた頃にフッと浮かび上がる。
 登校拒否をして、一人で山にこもり、キャンプ生活をし始めた少女。そして、その親友の2人の少女。キャンプする少女に想いを寄せる少年、そしてその友達。
 10年以上も前の出来事が、再び故郷に集まり、顔を合わせた今、つい昨日のように思い出される。お互いが不在だった時間を飛び越え、まるで昨日の出来事のように、過去が今を侵食してゆく。
 残った者、出て行った者、それぞれの心に、それぞれの悔恨を刻みつけながら・・・。
 今、ここにいる者、いなくなった者、道は分かれて、時間は共有されはしないけれども、やっぱりそれはそれで大切なもの。だから、否定するのじゃなくて、受け入れて、今につなげてゆく。
 今は否定されるべき存在ではなく、肯定されるべき存在であるべきだろう? と。

 この公演は、イタリアとチリで5月に上演される予定となっている。
 きっと世界を驚かせてくれるに違いない。


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「ああストレンジャー」「LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望」 [演劇]

 今、といっても、3年くらい前から注目していた劇団、マームとジプシー。

 反復するシーンの中から立ち上る人の想いと記憶。
 懐かしさは、、、でも、時として悲しみの雫を含む。
 若さゆえの愚かさと後悔・・・。

 そんな想いに溢れた芝居を、エネルギッシュに展開するマームとジプシーは、今ではチケットの取りづらい劇団と呼ばれている。

 「ああストレンジャー」は、カミユの「異邦人」をベースにしつつも、あくまで演出家の藤田貴大色100%の作品。
 原作のエキスのみを抽出し、舞台を現代日本に移し替え、人が存在することの違和感を映し出す。違和感というのは後天的に感じるのではなく、もしかしたら存在的に我々誰もが抱えているらしい<原罪>に近いものなのかもしれない。それを感じながらも、それでも人は生きてゆく。単純ゆえに動かしがたい事実・・・。

 一方、「LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望」は、藤田貴大が九州の小倉に滞在し、そこで感じたことを芝居を通して表現した異色作。
 北九州芸術劇場の依頼によって生まれ、地元九州で活躍する俳優及びマームとジプシーの面々とのコラボレーションによって描かれる<ある地方都市の憂鬱>。
 街の商店街であったり、海だったりといった風景に混ざり、街を出てゆく者、戻って来る者、嫁いで病で亡くなった姉だったり、海で消息を絶った身内だったり、何気ない日常の中にあるひりひりするような楔(くさび)は、時にむき出しになり心を刺す。

 マームとジプシーは、藤田貴大の大いなる創作意欲の赴くまま、かなり早いタームで新作を上演し続けている。
 まさに今観るべき劇団の最右翼だと思う。


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『ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト』(マームとジプシー) [演劇]

 この前観たフルタ丸以来、なんとなく芝居っていいなあ・・・と、再認識させられた。フルスクリーンの映画もいいけれど、それとは違った魅力が芝居にはあるから。
 声を荒げたり、で、その声がかすれてたり、汗をかいたり、息が上がったり、目の前に人の息使いがあることの事実。
 
 マームとジプシーを観るのはこれで3回目。途中、仕事の内容が変わった(部署変えですね)のと、娘の受験等で、もちょっとエアポケットに入り込んだ時期だったことが重なったこともあり、この1年ほどは観ていない。

 結論から言うと、久々に観たマームとジプシーは、やっぱり面白かった!!

 それもかなりパワーアップされた感じで、以前にも増してスピードに溢れ、これは彼らの表現形態をかんがみても、ある種の到達点になるんじゃないのかと思わせるものがあった。
 
 マームとジプシーの表現形態は、反復。音楽に例えればミニマル・ミュージック。しかし、ミニマル・ミュージックが緩やかな反復が基本になっているのに対し、彼らのそれは早さを伴った反復だ。今作はそこの部分がこれまで以上に先鋭化され、まるでバレエのビルエット(軸足を支えにしてで回転するやつ)のよう。それがひとりではなくて、全員が渦になっていく感覚と表現したら分かりやすいか。
 それに加え、反復度数というか頻度が、これまで以上に増加しているようで、いちいち数えていないが、同一シーンを20回くらいは繰り返していると思われる。

 マームとジプシーの場合、曖昧としたタイトルの付け方も興味深く、まるでモールス信号のような単語の断片が、想像力を刺激したりする。それも含め、ある程度考えないと楽しめない芝居であるとは思う。
 しかし、いったん頭の中をリセットして、まっさらな状態で接すれば、必ず新鮮な驚きをもたらしてくれることだけは確かだ。

 書き忘れるところだったが、今作のテーマは「家」。
 100年続く田舎にある実家が取り壊されることになった。そこには老齢のおばあちゃんしかいない。
 彼女の子どもたちは家を出て、自分の家庭を築いている。さらにその子どもである姉妹も、家庭を持ったり、ひとり暮らしをしたりして、それぞれの生活を生きている。だから、実家は遠いものになってしまっていたのだが・・・。

 「家」を巡る家族の記憶と、時間、現在と未来のお話。



 ※ まったくの偶然なれど、我が家の目の前の家が、建て替えのため、取り壊された。それも芝居を観た翌日に。これって、シンクロニシティ???


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『うつくしい革命』(劇団フルタ丸) [演劇]

 しばらく芝居から遠ざかっていた。
 別に嫌いになったわけではなく、仕事の部署が変わったことと、娘の学費で金銭的に余裕がなくなったことが主な理由。
 しかし、ここ最近になって、ああ、観たいなあ~という気持ちが高まってきて、ええい、まま(=なりゆき)よ! とばかりにチケットを購入したのだった。

 10周年記念公演と銘打たれているが、フルタ丸という劇団の存在は知りませんでした。
 でも、半分自虐的に書かれた<失敗した自分の革命>(芝居で天下取ってやる! と意気込んでからの10年間)についての文章を読んで、妙に共感が湧いてしまい、こりゃあ、行っとくか !? と。

          ★          ★          ★          ★

 STORY
 演じることを禁止された街に、まだ若い女優がやってきた。この街は演じることさえしなければ、至極暮らしやすい街で、働く必要すらなく、彼女と同じような、役者を辞めた者たちが悠々自適な生活を送っていた。
 平和そのものであるはずの彼らは、しかし、同じ役者なれど、舞台俳優であった者と、テレビ俳優だった者に分かれて、お互いを目の敵にしていた。また、警備員が巡回し、絶えず住民が演技をしないか監視する監視国家の様相を呈していた。
 そんな中、一人が演技をしたくなり・・・。

 と、だいたいこんな感じで始まる。


 芝居という<毒>に侵されてしまった者は、演じずにはいられない。それが禁断の果実をかじってしまった者の宿命。
 フルタジュン氏は今回の芝居のチラシに、この10年の理想と現実を記した。10年頑張って芝居をやってきた自分を取り巻く環境が、けして明るい未来に包まれているわけではないことを自覚してしまっている自分。そもそもサラリーマンでもやっていた方が収入も安定するし、結婚⇒子ども⇒家族、といった世間一般で言うところの "幸福" だって得られる確率は高い。にもかかわらず、20代前半の初期衝動のまま、大学を卒業した後も、芝居を作ること、演じることを選択してしまった。10年前の "あの時点" の自分に間違いがなかったとは、たぶん、断言出来ないはずだ。
 にもかかわらず、それでも選択は成された。自分の意志で。ならばやるしかないじゃないか! の10年だったはず。その是非をこの『うつくしい革命』は問う。
 劇団代表のフルタジュン氏は現在31歳。そんな自問自答をせざるを得ない年齢に差し掛かったということだ。嫌な話だが、転職を2度経験しているボクも、年齢が上がれば上がるほど、選べる職種は減ってゆくのを実感したものだ。
 20代の無謀は美しい。だが、悩める30代を経て、取り返しのつかない40代へと陥る危険をはらんでの "今" なのだ。

 あくまで芝居(虚構)という形を取ってはいるものの、その裏側(現実)はかなりシビアだ。
 芝居を続けるのか、辞めるのか。
 20代の頃に夢見ていた、芝居で起こす<革命>はまだ成されていない。それでも<革命>を夢見て邁進する力が自分にまだ残されているのか?
 その覚悟を見せる10周年記念公演。


  
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『カップルズ』(鵺的) [演劇]

 鵺とは・・・・・・架空の動物。頭はサル、胴はトラ、尾はヘビの形をしているそうな。

 ゆえに鵺的という名のこの劇団は、ありそうでなさそうな、でもあるかもしれない境界線上の異世界を垣間見せようとする一風変わった劇団なのだろうか?

 『カップルズ』とタイトルのつけられたこの芝居も、一言では言い切れない、不思議なテイストの芝居だった。
 <男>と<女>の、割り切れない人間関係と、深淵を覗き見るかのようなあやうい心情を、セックスという関係性の中に描くが、かといってどっぷりとセックスにのめり込むことすら出来ない、現代人の心のインポは切ない。と同時に、うざったい。
 扱う題材が抽象的なのを、無理やり、グイッとばかりに、IT関連会社のを舞台に、若い社長、社長の奥さん、社長秘書、社長の学生時代からの腐れ縁の小説家、その淫乱な奥さん、等々、、、具体的も具体的、それも時代の最先端(もはや、そうでもないが)かつリッチな方たちを登場させたのは、けっこう意外だった。正直、リアル過ぎね? 登場人物にここまできっちりと社会的役割を割り振っているのが逆に違和感あり。

 で、タイトルにもある通り、乱交パーティもあるから、表向き(本来)のカップル以外にも、色々なカップルらしき結びつきがあり、事件の真相が徐々にあらわになってくるが如く、隠された愛憎関係も浮かび上がってくるのだった。
 そういうオチなの??? と、正直、観終わった後にも違和感ありあり。
 いや、オチはまあオチとして、シチュエーションが、このオチ(=人間関係)を生かす最良の方法だったんだろうか? と、つい考えてしまう。
 観ていない方を考慮して、具体的な記述が出来ないのが、ああ、もどかしい~~~!


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『風景画』(維新派) [演劇]

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                   『風景画2011(池袋バージョン)』維新派



 野外劇を得意とする維新派が「風景画」シリーズと銘打って、異なる場所で展開する新しい演劇の形。
 岡山県犬山の浜辺を舞台にした公演に引き続き、場所を都市に移行し、都市としての「風景画」を模索する。
 選ばれたのは池袋西武デパート4Fの広場。階下には西武池袋線があり、ひっきりなしに列車が走っているのが目に止まる。もちろんそれに併せて騒音も一緒に響く。
 当日は朝から雨模様。公演開始の夕方5時前には止んだものの、いつ降り始めてもおかしくない暗い空。なので事前に用意したポンチョ(100均で購入)を着ての観賞となった。ちなみに隣には "和服の美女" の名で時々登場する女性も参加。ボクの好奇心につきあってくれる奇特な女性なのだった。不覚にも携帯電話を忘れてきたので、待ち合わせにかなり難儀したのはご愛嬌、、、では済まないわな。ごめん!

 いつも通りの白塗りに白シャツ、膝までのズボンという出で立ちの2人の少年。足で地面に引くラインは直線なれど交わらず。しかし、幾度となく繰り返すうちに、バラバラだったものがやがて交わり、目に見えぬナイフを持つ者、それで刺される者という(風に見えた)対立関係に発展する。
 直線だったり、四角だったり、形を変えながらも、幾何学模様への偏愛のようなものがいたるところに見受けられ、シンメトリーでありながら、微細な個所はそれを外してあるような、やっぱり一筋縄ではゆかないかたよりみたいなものが強く感じられるのだ。
 今回は縦への広がりではなくて、平面地図に何を描くか・・・を問題にしているようで、だから雛壇の上の方に偶然、ポツンと空いていた席に陣取り、俯瞰の位置から眺められたのは、良かったようだ。

 何度となく眺めているはずの池袋という都市の風景も、いつもと違って感じられたのは、やっぱりこの芝居だからこそなのだろう。
 

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『極めてやわらかい道』(ゴジゲン) [演劇]

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                    『極めてやわらかい道(ゴジゲン)』


 芝居は久しぶり。
 なので下北沢も久しぶり。
 ラーメン屋で早めの夕食と洒落込み、麺固めとか言いながら、乗ったチャーシューに舌鼓を打つ。
 あいかわらずどこに通じているのか皆目見当のつかない路地を行ったり来たり。それでもって駅前劇場の名の通り、最後には南口の目の前に戻ってくるのだけれど。


 『極めてやわらかい道』

 ゴジゲンの芝居は作・演出松井大吾のネガティブな怨念から紡ぎだされる恨み節だ。
 田舎者のコンプレックスに満ち満ちていて、天邪鬼のように、世間とか社会とかの常識や共通幻想の如き夢物語を極端に嫌う。それを信じられたらどんなにいいだろう。でも信じられない。信じてしまったら、それまでのすべてが崩壊してしまうかのような切迫感が巨大な塊として、ドン、と、ある。
 だから「夢は信じ続ければ、いつか叶う」といった、最近のJ-POPに共通な甘ったれた幻想に唾を吐く。

 今回の『極めてやわらかい道』は、恋愛についての物語だと言う。
 恋愛物で想い出すのが、ボクが初めてゴジゲンを観た『チェリーボーイ・ゴッドガール』の衝撃だ。
 おんぼろアパートで暮らす貧乏学生たちのしょーもない恋愛(にさえなっていないのだが)模様が、希望もなく繰り広げられ、最後には自爆する不条理このうえない内容に、頭脳停止状態に陥った記憶が今も生々しい。
 状況的には今回はその10年後のような、やっぱり救われない(いや、一部は救われるのか?)ドツボな青春物語となっている。

 向かいのアパートの女性の日常生活を監視する男たちは、彼女を女神のように崇拝している。しかし、そんな彼女が同居するヒモの残した借金を返済するために風俗へ働きに出るのだが、ヒモとはケンカばかり。かといって彼らは彼女を遠くから見守ることが自分たちの愛の形だと言い、じっと監視を続けるだけで・・・。そんな話。

 恋愛なんてしょせんは幻想でしかない。じゃなけりゃ、なんであんなブス(失礼!)を連れて歩けるんだ??? そんな感想を抱いたことのある方も多いに違いない。そう、その通り。
 恋愛の正体がしょせんは個々の現像ならば、<恋愛=一方通行>だっていっこうに構わないじゃないか! いや、すべての思い込みと虚構をはぎ取ったら、一方通行しか残らないはず。ならばその一方通行をとことん突き詰めてやろうじゃないか、、、と。

 (以下、小さなネタバレ含む)

 『チェリーボーイ・ゴッドガール』では、そこが出口なしの自爆だったのに対し、『極めてやわらかい道』では、前向きな明日などやっぱり見つけられないものの、自爆の後に訪れた "夢の終わり" が描かれる。のめり込みの激しい狂気ほど、醒めた時の反動は大きいもの。しかし、醒めた後、彼らの進むべき道は、あいかわらずの獣道なのだった。

 (小さなネタバレ終了)

 ゴジゲンの芝居の内容は昔から今まで基本的には不変だ。うだつの上がらないどうしょうもないズブズブの青春がそのにある。カミユの著書『シューシュポスの神話』とは違い、永遠とも思えるうだつの上がらなさは、一向に改善されるわけでもなく、取り損ねた灰汁(あく)のように、ぶざまに浮いているだけである。たとえぶざまであれ、灰汁として青春という時間が存在している事実もまた動かしがたいものではあろうが・・・。

 
タグ:ゴジゲン
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『冬の穴』(ポかリン記憶舎) [演劇]

 会場となったのは、な、なんと、学習院女子大!!!
 ということは、堂々と女子大に潜入(!?)出来るのですね。ああ、ありがたや、ありがたや(笑)
 ついでに記念として正門を撮ってきました。う~ん、なるほど。

 なんていうのは置いておいて、久々のポかリンの新作は、その女子大のホールの入口を利用しての芝居となった。それも葬儀場を舞台にした芝居とな。さてさて、どうなることになりますやら・・・。

 ポかリンの芝居は、ごくごく平凡な日常の中のほんの些細な出来事の断片を切り取り、観客に提示して見せること。それをどう判断するかは観客側に委ねられる。なので人によっては、何の話だったの? と、なりかねないので注意。

 今回の題材は葬儀場。そこで繰り広げられるわずか数時間の出来事・・・。
 本妻と愛人がバッタリ遭遇する。一人の男を巡る対立が静かなフロアで繰り広げられるのだが、それぞれにはそれぞれの言い分がありつつも、言い合いにはならず、愛人はそっとその場を去る。どちらが勝者なのかは定かではない。
 葬式に来ている妊娠した女が、式場のスタッフの学生時代の同級生だったことが判明する。どうしてこの仕事を選んだのかと尋ねる女に、一瞬言葉を詰まらせる男。
 息子の死を受け入れられず、ロビーでじっとたたずむ男。
 それぞれが小さなわだかまりを心に抱え、それでも日常を生きている。
 そんなことをフッと思ってしまう芝居だ。

 すべてとは言わないが、主要な登場人物は多少なりとも心に問題を抱えており、表向きは平穏な様子をしているのだが、ちょっとした瞬間に、ほころびが露呈したりする。
 葬儀場に努める青年はどうやら親と上手くいっていないらしく、かかって来た電話にもすげない。
 その様子をたまたま見ていた老婦人は、親が生きている間に、一度、ちゃんと話をすべきだと、優しく諭す。しかし、ロビーでうなだれる子どもを亡くした父親は、すべての人が分かり合えるというのは嘘っぱちで、分かり合えないことを受け入れ、お互いが距離を取るのも一つの方法だろうと告げる。寄り添うのが優しさならば、寄り添わないのもまた優しさ足り得るのではないのか? そんな二人の堂々巡りもあったりする。

 今回の芝居は、これまでに見られた、後味の悪い<謎>の種のような展開にはならないけれど、人が生きてゆくことに対しての落ち着いた観察眼のようなものが見受けられて、こちらもまた興味深かった。

  
タグ:ポかリン
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『ハロースクール、バイバイ』(マームとジプシー) [演劇]

 《時間》を切り取る独特の方法論が新しいマームとジプシーの芝居は、芝居の新しい局面を見せてくれているようで興味深い。

 客席の奥まで響く良く通った声を朗々と発するような芝居らしい芝居ではなく、ボソボソと囁くような喋り方は現代口語劇の流れになるのだろうが、会場が割とこじんまりしているせいもあり、すんなりこちらに入ってくる。その反面、じゃあ700~1000人規模の会場になった場合、同じ喋り方の芝居は成り立つのか? とか、素人ながらに思ったりもするが。

 内容はタトルが端的に語るように、新しく転校してきた少女が、誘われるままバレー部に入部し、なんとか新人うく戦に出場したのもつかの間、また学校を去ってゆくというもの。話だけを取り上げると、特にどうということのない平凡な話だ。
 それじゃあ、その平凡な話のどこが面白いんだよと、問われれば、その語り口、といおうか、表現方法が独特なのである。
 まず、開演早々、バレーの試合が始まる。物語は現在行われているバレーの試合中に脳裏をよぎる過去の回想という形を取る。それだけならまあ、取り立てて気にすることもない。強いて挙げれば "映画" 的な手法となるのだろうが。
 その回想が、同じように何度も試合中に現れては繰り返されるのだ。また同じ場面かよ、、、と思いながら眺めていると、あれ? ちょっとだけ違う・・・、ということに気づく。そしてそれは主人公の少女だけではなく、他の登場人物の回想であるのが分かる。
 こうして回想する人物を変えてゆきながら、それぞれの想いが同じ重要性を持って、重ね塗りをするように展開されてゆくのだ。
 さらに回想は必ずしも時間軸に沿っているわけではないため、色々な回想が、あちこちに顔を出し、まるでジグソーパズルを組み立てているような錯覚に陥る。この感覚はこれまでに味わったことがなく、新鮮だ。
 
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