『ブレードランナー(最終版)』 [映画]
『ブレードランナー(最終版)』
このブログでも取り上げフィリップ・K・ディック著の不朽の名作、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の映画化作品。原作同様、SF映画史に残るカルト作品との名誉ある栄誉を頂戴している一作。
公開は1982年。1979年に『エイリアン』が公開され、一躍有名監督に躍り出たリドリー・スコットの地位を決定づけた作品でもあるが、公開当時は大ヒットには至らず。評価もそれほど高くなかったように記憶している。今のように作品が不動の地位を築いたのは、公開されたかなり後になって。マニアが騒ぎ出したからだ。
今回、改めて最終版なるバージョンを観て、最初に公開されたものと、正直、どこがどう違うのかピンとこなかった。それもそのはずで、最初のバージョンを観たのは今から20年も前なので、はっきり言ってよく憶えてないのだった。ごめん。
で、20年後もやはり面白かったか、というと、面白くもあり、過大評価されている部分もありかな、と、いうのが率直な感想となった。それと、原作とは別物と考えた方がスッキリするということが分かった。
この作品があまたあるSF作品を超えて、現在まで確個たる指示を受けている点は下記の3点。
①この作品以降、映像の作り手に大きな影響を与えたのが、近未来の都市の有様だった。
<未来は清潔ですべてがきれいに整備された都市>に違いないという最大公約数的イメージは、テクノロジーの進化にその起源を求められるかと思う。しかし、この映画で描かれた未来の都市の姿は、整備された部分も当然ありはするものの、アジアとでも呼べる混沌とした猥雑さもまた平行して存在するものだった。
雨が降り止まぬ街には、新宿の「思い出横丁(別名:しょんべん横丁)」をモデルとしたような、狭く、汚れた吹きさらしの小さな店が連なっている。
これが輝かしい(はずの)我々の未来なのか? 誰でもこのシーンを観て、ショックを受けたに違いない。こんなはずではなかったのに・・・。このショックは『マッドマックス』を観た時も同様にあったのを想い出す。
②原作の核でもある、人間とは? アンドロイドとは? という命題を扱っている
人間にとって重労働や危険な作業を回避することを目的に、レプリカントは奴隷として作られた。寿命は4年。高い知能と身体能力を持つレプリカントが、そんな境遇に甘んじなければならない理由はたった一つ。人間によって作られた存在だから。しかし、作られた命であろいうと、レプリカントたちにとっては真の命である。それなのになぜ、自分たちには4年の命しか与えられていないのか? 永遠に奴隷という立場しか与えられていないのはなぜか?
ある者は残りの命を奴隷としてではなく過ごしたいと思い、ある者は自分の存在意義を求めて、地球へと逃れて来た。もともと彼らは「逃亡」という罪以外犯していないのである。それなのに対レプリカント専用捜査官、ブレードランナーに追われ、始末されなければならないのだ。
③人間とレプリカントに違いなどあるのか?
外見はまったく区別がつかない人間とレプリカントを見分ける方法はたった一つ。いくつかの質問を用意し、その回答によって身体に何らかの変化が表れれば人間、そうでなければレプリカントとなる。これはごく微細な違いを読み取る専門的知識を必要とする。だが、違いはこれだけなのである。
そして、レプリカントを開発した博士の秘書、レイチェルに至っては、自分のことを人間と思い込んでさえいるのだ!
誰が人間で、誰がレプリカントなのか? 人間の中にも犯罪を犯す者もいれば、他人に攻撃的な態度を取る者もいる。反対に、レプリカントの中にも温厚で、周囲に気を使えれる者もいるはずだ。ならば重要なのは "人間か? レプリカントか?" ではないのではないか?
以上、確かに興味深い物語ではある。出来ればF・K・ディックの原作とこの映画の両方を見比べて、その違いと共通する部分の両方を味わってみて欲しい。
個人的には原作に比べ、映画は映像としての特筆すべき箇所は多々あるものの、主人公デッカードのアクション付きの単なるレプリカント捜査物語になってしまった点はいささか残念ではある。まあ、これ以上やって『惑星ソラリス』みたいな方向に行ってしまっても、それはそれで困りもの(?)かもしれないが。
細かいことはウィキペディアに紹介されているので、時間があればそちらをご覧下さい。
タグ:フィリップ・K・ディック SF
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