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『[リゾーム的]なM』(BABY-Q) [演劇]

 ダンスにはエロスを!
 人間の有する身体能力は限りなく飛躍する。
 無限の力は<エロス>と<タナトス>を両脇に抱え、天空高く飛翔する。
 不可能は可能に、収縮と伸長、安定と痙攣、繰り返される極と極せめぎ合いは極度の緊張感を生む。

 突拍子のないものが観たい。
 予測不可能なものに出会いたい。
 いつもそう思う。
 だからいつも気が付くと不安定な足場に立っている。
 怠惰は悪だ。
 鋭いナイフの切れ味こそが自分の身を守る。
 何から?

 日頃観慣れない<ダンス>というジャンルに、芝居とはまた違った魅力を感じ、旅行の疲れも取れないままここにいる。もはやほとんど気力のみ。いつ空から大粒の雨が降って来てもおかしくない空模様だ。

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                       吉祥寺シアター前の風景

 男と女、性差の壁は乗り越えられるのか?
 それともしょせん理解し合えない別のものなのだろうか?
 ここで表現されるのは、そんな男と女を取り巻く心象模様。

 膨らんだお腹を愛しそうに撫で、眺める女たち。これから新しい生命が誕生するのだ。
 しかし喜びばかりではない。出産という現実的な苦痛に女たちはのた打ち回る。
 その傍らで男は・・・煙草の煙を吹かし、まるで他人事のような顔でそれを眺めているだけだ。
 
 男たちの世界は暴力に満ち溢れている。お互いに殴り合う行為は憎悪なのか、それとも愛情を手探りする手段なのだろうか? 荒々しいやり取りは、50年代の怒れる若者映画、『暴力教室』や『乱暴者』のワンシーンを彷彿とさせる。

 男たちは化粧をする。マスカラを塗り、頬紅をさし、赤い口紅が毒々しい色を放つ。身に付ける衣装はド派手なドレス。そんな姿でまるで自分の美しさを見せびらかすように、ゆっくりと歩を進める。
 その間を縫って女たちは寄り添うでもなく、ここでもまるで身もだえするが如く、床の上を激しく転がり続ける。

 男とは?
 女とは?
 その境界線が崩れた後、何がそこに表出され、何が喪失されるのだろうか?

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『ばべるの塔の僕とガイジン』(ザ・プレイボーイズ) [演劇]

 ある意味、ゴジゲンの流れでここに辿り着いた。
 それというのも、
 ①出演者がゴジゲンの二人であり、
 ②ゴジゲン同様、本流から外れかけのモテナイ男たちの笑っちゃうぜ青春劇だったり、
 するからで、このザ・プレイボーイズもゴジゲンも、割と近い立ち位置にいるような気がする。

 シリアス物からちょっとばかり逸脱している今のワタクシではあるが、"変なもの好き" は依然として変わっておらず、なので、《中年雑食自家発電手動式面白探索機》は引き続き稼動中なのだった。時に誤作動するけれど(笑)

 STORY:大学にもほとんど顔を出さないにもかかわらず、それでも夏休み中な主人公は、目覚めると同時にセンズリをこくダメなやつ。叔父の経営するアパートで暮らしているものの、家賃を滞納、アルバイトすらろくにせず、実家の仕送りで凌いでいる。
 ある日、叔父が見知らぬガイジンを連れて来て、ルームシェアしろと一方的に告げる。なんでも20数年前に外国に行った際、そこで世話になった友人の息子らしい。
 いったいどこの国の生まれかさえも分からぬガイジンとダメダメな大学生の共同生活、当然の如く上手くゆくはずもなし・・・。

 デスコミュニケーションに陥った大学生とガイジン(劇中もガイジンと呼ばれている)の、反発し合い、それでもやがて少しづつお互いを理解し合う姿が、、、なんてのはなく、いや、なくはないのだが、誰でもがはまり込みやすい安易なお涙ちょうだいの感動路線をウリャ! とばかりに蹴飛ばし、ただただしょーもなく、くだらなく、グダグダと、まるでクーラーのない古ぼけた四畳半の如く(って、なんだよ、それ?)、物語は進む(進まない?)のだった。

 いいぞ、そうこなくっちゃ!!
 後半、シリアスになる場面もあり、実はちょっとばかりホロリとさせられたりも、ここだけの話、しちゃったりするのだが、最後の一発逆転大ドンデン返しで、それもなーし!!!
 その姿勢、見上げたもんだぜ!!!

 観終わって、
 「ああ、人間もまだまだ捨てたもんじゃないね」
 「やっぱり愛なのよねえ・・・」
 「死んじゃってかわいそう~、シクシク」
 「戦争はダメだ、平和が一番」
 とか、自分はなんにもしないで、軽々しく言うんじゃねえー!!!
 白痴化した善良な市民の感動ほど恐ろしいものはない。

 アホな物語の中に、実はけっこう辛らつな視点がまぎれていて、笑ってる後ろからふいに背中を鋭い刃物で刺されたような、一瞬の殺気が潜んでいるのかもしれない。
 何気にツワモノ???
 
タグ:ゴジゲン
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『ヒキコモリの七人~例えると、天国の底感~』(ウラダイコク) [演劇]

 どうも前回のゴジゲンの芝居をキッカケとして、まじめなものから、ちょっとだけアホなものへと、自分の求めるものが微妙にシフトしているような気がする。
 これっていったいなんだろう・・・?

 単なる気の迷いか? それとも、突然変異か?

 まあ、そんなこと知ったこっちゃない。
 本能の赴くまま、行くのだ、どこまでも。
 答えは・・・たぶん、ない。
 
                         ☆

 登場人物・・・たくさん!
 それがショートショートのように、ポンポンと短いに現れ、そしてまた別の誰かが唐突に登場、そして消えて行く。
 いったいこいつ誰?
 頭の中が整理されないうちに、スピーディに移り変わる場面展開に、ちょっぴり遅れを取りそう。
 それが時に新人お笑い大賞の一回戦敗退、もしくは高校演劇祭での準優勝的な未完成さで展開されるもんだから、つい、おいおい、ちょっとさあ・・・とか、一声掛けたくなったりして。

 しかし、無理矢理(?)勢いで話が進んで行く内に、矢継ぎ早に現れては消えて行った登場人物たちの、何やらヘンテコな人間関係が浮かび上がってくるのだった。
 ん?
 おお?
 はあ~~~ん!
 てな感じ。

 そうか、これは世間にちりじりに存在する、おたくたちの群像劇なのだな。

 女たらしに騙される女子高生アズキ、そんな彼女を救いたいと願うマンガ家のイキトシ。
 自分にはもっとやるべき使命があると部屋にこもり、パソコンのキーボードを操るワシックス。
 アズキの父親で、スナックのママと不倫してしまうシゲオ、
 自分の体臭が気になってカッパを着ている紫、そして彼が部屋に呼ぶデリヘルの女は、女たらしの年上の彼女だった。
 イキトシのいじらしい恋心に萌えるオカマのホウライ。彼はスナックのママのお金を黙って借り出してしまっていた・・・。
 などなど。

 後半は支離滅裂だった話と人間関係がイキトシの恋の行方に集約されつつ、大団円を迎えるのだった。
 軽薄・短小を絵に描いたような猥雑な登場人物&ストーリーの彼方から、実意は入念に考え抜かれた(というほどでもないか?)演出者の意図が浮かび上がってくるのだった。
 ご苦労、痛み入ります!

 芝居と一言で言っても、色々なものがあるなあ・・・。
 だから楽しいのだけれど。
 
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『タロットカードによる十二のモノローグ』 [演劇]

 新国立劇場の粋な計らいで、「シリーズ・同時代【海外編】スペシャルイベント」と称して、この時に公演した3つの芝居の内の一つの半券を持参すると、何と無料で「連続リーディング」3作品のどれかを観れるという。
 嬉しいじゃありませんか。この世知辛い世の中に、タダですよ、タダ!
 演ずるのが新国立劇場の練習生とはいえ、立派な役者の卵。成長盛りの若手を目の前で直に観れる貴重な時間と言える。

 入口でさっそく半券を提示すると、簡単なパンフレットを渡され、その後に、クジを引いてくれという。
 何故クジ?
 そのタネ明かしは名刺大のクジを見ると分かる。

        CIMG3810_256.jpg   CIMG3811_256.jpg
 
 まずは(A)客席へ。
 最初は全員ここに集合する。
 前説が行われ、その後、係りの者によってそれぞれの会場に引率されてゆく。
 それぞれの会場で演じられるのは、
 第一幕=旅立ち
 第二幕=喪失
 第三幕=出会い
 第四幕=届かぬ星
 とテーマを決められた短編が各3編の、計20編。

         CIMG3812_400.jpg
      
 5人の作家によって書かれたそれらリーディング劇は、クジによって定められた会場の、定められた芝居しか観ることが出来ないので、まさに出たとこ勝負の運試し!
 ちなみにTAOは、
 A.第一幕=旅立ち・・・「戦車」のカード:「戦車}
 B.第二幕=喪失・・・「隠者」のカード:「もうひところりん」
 C.第三幕=出会い・・・「力」のカード:「力」
 A.第四幕=届かぬ星・・・「女教皇」のカード:「女教皇」
 となっている。

 簡単にそれぞれを説明すると、
 第一幕
 ★株で大儲けした青年のモノローグ。
 大金持ちになった青年は幸せになるどころか、未だ自分のアイデンティティーを見出せず、人生の目的について自問自答する。人が生きるとはどういうことなのか? 誰も教えてはくれないし、自分でもどうしたらいいのか皆目見当がつかず、熱意だけが空回りするばかり・・・。

 第二幕
 ★登山の案内人が登山客(観客)との間で、無意味なやり取りを繰り広げる。
 「一歩前に出て、12歩千鳥足で歩いて!」
 「狂人のジェレミーの世話は大変だ」
 とか。
 そして何一つ観客に有意義な情報等をもたらすことなく去って行く。

 第三幕
 ★白装束の男の旅案内。
 素晴らしい世界へと旅立つのだから、古くて汚らわしい習慣はすぐに止めるようにと、しつこいほどの警告が永遠と続けられる。

 第四幕
 ★ローマ時代、女教皇の受難の物語。
 わずか2年間の間ではあったが、即位した女教皇は、悪意のある聖職者たちによって迫害され、お腹の子は生まれる以前に撲殺されてしまう。

 一つの芝居が終われば次の芝居会場へと移動して、当然、観客にはどんな内容なのかも知らされていないため、会場を移動するごとに緊張するはめになる。けっこう気が抜けないのだった。

 演じる新国立劇場の練習生の方々を目の当たりにして、まず感心させられたのが、発音がしっかりしていること。これは基本中の基本だが、普段我々が喋る言葉のトーンとは違い、よく通る大きな声が自然に出ていたことだった。会場全体に言葉を伝えるための必要最低限のことなれど、とても印象に残った。

 新国立劇場には、今後もこのような観客を巻き込んだサプライズ・イベントを、ぜひ継続して行っていただきたいと思う。
 会社からも近いし、何かあったらすぐにでも馳せ参じますぜ!!!

タグ:タトゥー
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『タトゥー』(岡田利規演出) [演劇]

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 現代ドイツ演劇界の注目株、デーア・ローアー女氏作『タトゥー』は、近親相姦という重い題材を扱いながら、どこか透明感漂う、詩的なたたずまいを持った作品となった。

 STORY:腕の良いパン職人の父親は手料理を家族に振舞う良き家庭人だ。奥さんはそんな旦那に理解を示し、従順に寄り添う。二人の娘は時にはケンカもするが、けして仲が悪いわけではない。
 一見、どこにでもある普通の家族・・・。
 しかし、父親は長女と密かに性的関係を持ち、それがあたかも父親の権利であるかのように、娘を諭(さと)す。家族もそのことを知りながら、特に母親は見て見ぬ振りを決め込む。
 そんな日常生活に、ある日、花屋の青年が長女に結婚を申し込む・・・。

 岡田演出は台詞に必要以上に感情移入することをあえて避けたような、例えるなら、小学生が台本を棒読みするようなと言えば分かりやすいかも。そして単語の一つ一つを独立させて、語る順番を入れ替える。
 (例)私、行く、花屋へ・・・ というように。
 そのような独特な表現方法が、舞台で演じられている出来事と観客との距離を隔てさせながら、密着させるという、相反する不思議な効果を生んでいたように思う。
 それは《感情移入を拒否しつつ、さらなる感情移入を喚起させる》。
 その上にやはり言葉同様にどこか不自然にギクシャクした身体の動きが拍車をかける。

 花屋の青年と結婚した長女は身ごもる。それが青年の子なのか父親の子なのかはわからない。
 ある日尋ねてきた父親は、かあさんが出て行ってしまったので、替わりをお前がしてくれ、と言う。
 花屋の青年は(何かに備えて)銃を調達するも、自分との問題意識も薄く、銃を妻に渡したままふてくされたように寝そべるばかり。
 夫という立場にありながら、彼は妻の家庭の問題にはまったくの無力であり、父と娘という忌まわしい関係に立ち入る術さえ持たず、その気持ちもない。

 銃を手にした長女はそれをどう使うのか、回答を提示する前に物語りは閉じる・・・。

 終演後には客席からブラボーの声が上がるものの、欧米の習慣をただなぞったかのようなブラボーの掛け声が適正だったかははなはだ疑わしい。具体的に何がブラボーなのだろうか?
 どちらかというと、観終わった後にジワジワと自己の中で浮かび上がる気泡のような、ある種の違和感を抱えながら、熟考せざるを得ない題材だと個人的には思われるからだ。この芝居は<点>でとらえるのではなく、<線>としてとらえなければ意味をなさない。

                         ☆

 この日限定の特別イベントとして、『タトゥー』を書かれたデーア・ローアーさん、演出の岡田利規氏、翻訳をされた女性、新国立劇場の責任者(?)の方が勢揃いしてのトークあり。

 特にローアーさんが自らの品の成り立ちを説明してくれたので、鑑賞中に浮かんだこちらの疑問が解けた。
 それは、
 Q1.なぜ家族の物語に近親相姦を持ち込んだのか?
 Q2.ブツ切りの台詞は演出家の案なのか、それとも最初からなのか?

 A1.もともと劇場から依頼されて書いたもので、当時、実際に近親相姦事件が起きて大きな社会問題になっていたそうだ。それまでドイツではその手のことを語るのはタブーだったらしい。
 A2.わざと原語(ドイツ語)を解体して、実際に使われていない言葉の序列をわざわざ作ったそうだ。岡田演出そのものが語り言葉を変形させたりするのを特徴としているので、てっきり演出部分でそうやっているものとばかり思っていたので、それが間違いだったことに気づいた。

 それを皮切りに、突き詰めれば、《演劇における口語と身体論》という話に集約された。
 面白かったのは、まったくの偶然なのだろうが、ローアーさんと岡田氏の考え方に共通点がもの凄く多いこと。まるで一卵性双生児かと見間違えるほどに。

 トークは予定時間をオーバーして終了。
 貴重な話をたくさん聞くことが出来て、とても有意義な時間だった。やっぱり聞いてみなけりゃわからないは正論なのだ。
 と同時に、自分の理解力をもっと上げていかないとなあ・・・との反省もいくばくか。
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『チェリーボーイ・ゴッドガール』(ゴジゲン) [演劇]

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 童貞による童貞のための童貞ドラマ、、、って、
 童貞、童貞って、言うな!!!

 童貞が聞いたらつい怒りたくなる単語の連呼に朝勃ち、じゃなかった、いら立ちを憶えることだろう。
 「童貞・・・、何もかもが懐かしい・・・」(by 沖田艦長)
 中年となった今だからこそ冷静に構える余裕があるが、若かりし頃、考えることといったら、
 ・・・の、永久循環! 

 ゴジゲンが放つ『チェリーボーイ・ゴッドガール』は、そんな男たち満載で送る男汁飛び散りまくりの青春群像劇なのであった。
 何か、イカ臭せーっ!!!

                         ◆

 舞台となるのは茨城県筑波市のオンボロアパート。
 仲間が絶えず出入りしているので、いったい誰の部屋なのか判別不明のそれは、壁一面に映画やサッカー選手、はたまた雑誌から切り抜いたであろうヌード写真などが所狭しと貼られている。畳の上には布団が散乱し、エロ本の山、小さなテーブル、そしてマリオカート。
 今日も全身の毛穴から童貞臭を発散させた男たちが、パンツ姿で2階の部屋の窓から通りを行く女たちを品定め中。あいつとはヤレる、ヤレない、まるで交通量の調査員のようだ。
 そんなところにみんなが一目置くドラゴン(先輩?)が、セックスしたけりゃ合コンが一番! と、セックスへの童貞、もとい、道程を指南する。
 いても勃っても、じゃなかった、経ってもいられなくなったポパイは、何と、携帯番号をGET!
 かくして合コンによる童貞喪失バトルの火蓋が切って落とされるのであった。

                         ◆

 舞台に出現した小汚い部屋を見て、思わず学生時代の友人のそれを想い出した。絶えず誰かが寝泊りしているシチュエーションもまったく同じで、やっぱり先輩もいたっけ。
 そして集まれば、まずは酒! 酔っ払ってくれば語るほどの経験もないのに「人生論」とか、「芸術論」とか、青臭い話が始まって、で、結局行き着くところはいつも女の話(笑)
 喫茶店にかわいい娘がいれば連日通い、挙句の果てに玉砕!! 
 ナンパしてデートの約束を取りつけるも、当日ドタキャン!!!
 愛も金もないが、時間だけは腐るほどあった。
 不遇な10代最後の時間は、永遠に続くと思われた・・・。

                         ◆

 合コンを終えた彼らの様子はどこかみなぎこちなく、
 風が強いから前に進めなかったと参加しなかった倉島、
 参加したはいいが、一言も喋らなかったドラゴン、
 同じく、一発目に、「童貞ですがいいですか !?」と切り出し、シカトされる杉森、
 問題外視されていたにもかかわらず、がんばったムー、楢やん、等々。
 それぞれが合コンという現実に直面したことにより、見つめざるを得ない、現実。
 果たして童貞は捨てられるのか?
 それとも守り切るのか?

 どーしょうもなくくだらない男たちの、童貞という絆で結びついた関係が、理屈を超え、ドラマを生み出すことに郷愁を覚えつつ、でも爆笑してしまう。
 何故なら彼らこそ、あの当時の自分に他ならないから。
 だから、誰が彼らを嘲(あざ)笑うことが出来よう。
 彼らを嘲笑うこと、すなわち、自分を嘲笑うことなのだから。
 それは自分が過ごしてきた10代を、青春を、嘲笑うことだからだ。

 GW最終日、雨に咽(むせ)ぶ下北沢で、思わぬ拾い物に出会って、ちょっと嬉しくなった。
 観に行こうと決めたのは2日前、ラッキー!!!


 追記:あのラストだけは納得がいきません。
     えー???

 追々記:下北沢OFF-OFFシアターにて、5月10日(日)まで上演中!

タグ:ゴジゲン
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春の埼玉地区高校演劇祭 [演劇]

 いよいよGW。
 朝からニュースでは高速道路の渋滞情報を流しています。
 東名事故で通行止め、渋滞40キロ・・・みたいな。
 笑いごとではありません。高速道路が1000円になったことにより、例年以上の混雑は必至。これでますます出かけられなくなりました(笑)

 さて、そんな世間様の慌てぶりを横目に、ワタクシは偶然見つけた高校の演劇祭に顔を出してみました。
 正式には、
 《第30回埼玉県川越坂戸地区春季高校演劇祭》です。
 会場となるのは尚美学園大学。
 これが駅からもの凄ーく遠いのよ!
 普通行き着けない距離です。ところが周囲を田んぼに囲まれたロケーションゆえ、田んぼが分かればなんとなくその存在が分かってしまうのがミソ。

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 さすが大学だぜ!!
 いかにもキャンパスといった風情につい開放感が・・・。

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 ここが会場入口。もちろん無料。

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 入口内は女子高生がズラリと並んで挨拶してくれるのだった!
 何かこそばゆい、、、というか、恥ずかしい・・・。
 よーく考えてみれば、演劇部はほとんどが女子。なので会場は女子ばかりなのは当り前なのだった! 思わぬ誤算に、ついつい笑みがこぼれるTAO。
 
                         ☆

 2日間に渡って開催されるこの演劇祭の初日、進行表とともに短い感想を書き記しておくとしましょう。

 9:30 会場
 9:55 オープニングの挨拶

 10:00 城北埼玉高校『今は昔、栄養映画館』(60分)
 のっけから男子二人とは意表を突いた始まりだ。
 映画の完成試写を迎える監督と助監督。あと5分でお客様を迎えなければならないのに、監督のスーツのボタンが取れていることに端を発するドタバタ劇。
 前半はもたつきぎみだが、後半になると、お偉いさんからの電話に良い席を確保するため、目印に自分の服を置き、ついに裸になってしまう滑稽さは笑えた。
 ただ、60分は長すぎ。30分に短縮してよりスピーディに展開させた方が良かったかも。

 11:20 川越西高校『That's all』(50分)
 携帯依存症のひかるは、部活の最中でも暇があれば絶えず携帯を手にしている。
 ある日それを注意されて、部室に携帯を置いたまま練習に出かけて戻ってみると、置いたはずの携帯がなくなっていた。犯人は誰なのか? その目的は?
 今風の高校生事情を反映させた点が旬。大人ではなくて、若い彼ら自身が今の状況をどう捉(とら)えているのかを伺わせる内容に興味が持てた。
 本当に重要なものは、携帯ではなく、友達、という結論も常套句ではあろうが、やはり清々しい。

 ここで1時間、お昼休み。

 13:10 星野高校『ダブリンの鐘つきカビ人間』(60分)
 この劇だけ新作ではなく、即成作。
 御伽話のような、ファンタジー小説のような風合いを持った異色作。
 病気(?)で反対の言葉しか言えなくなってしまったおさえと、元は美少年なのにカビ人間になってしまった男の悲恋物語なのだが、象徴的な舞台美術といい、おさえの逆さま言葉によって物語がどんどん逆方向に流れて行ってしまう皮肉が上手く表現されていたいたと思う。
 高校演劇レベルから一段抜け出た作品となった。

 14:30 県立越生高校『星のひとかけら』(50分)
 こちらは女子二人の卒業と夢にまつわる物語。
 仲良し二人組の亜樹と晴菜は学校帰り、近くにある公園のベンチでひとときのおしゃべりを楽しむ。
 高校3年の進路決定を間近に控えた頃、二人は将来の夢について語り合う。亜樹は歌手に、晴菜は天文学者に。
 ところが亜樹の父親がリストラにあったことから一変、亜樹は歌手になる夢を諦める。
 「そんなに簡単に夢を諦めていいの?」
 そう亜樹を説得する晴菜だが、二人の間に険悪な雰囲気が漂う。
 いささか現実感を欠いた夢物語ではあるが、父親のリストラのような、今、巷で起こっている問題を絡めて脚色したところは共感出来る。

 15:40 武蔵越生高校『夢ドロボウ』(60分)
 な、なんと、男子4人の演劇部とな! むさ苦しい中にも礼儀あり?
 薄汚れた演劇部の部室。そこに先輩イッキと後輩ホラーレがいつものごとくダラダラと過ごしていた。新入りのヤングムーンは新入りの癖してどこかよそよそしい。実は彼こそ<夢ドロボウ>なのだった。
 その<夢ドロボウ>を追って、時空を超えてやって来たコリュウ。ここに時空を超えた超絶バトルの幕が切って落とされた!
 イッキとホラーレのバカ部長とバカ部員の掛け合いが笑わせる。特にホラーレは若手芸人の如く、ホモネタを軽く混ぜつつ、存在自体がすでに変だ。
 ここでもタイトルが示すように、<夢>について語られる。夢を持つ者、夢を奪われた者、夢を取替えそうとする者、それぞれの物語がいささかバカバカしく展開される。

                         ☆

 終演は16:40分。けっこうな長丁場となった。
 それでも熱心に芝居に打ち込む高校生たちの姿はやはり見ていて微笑ましいし、大人になることへの不安と期待と共に、改めて彼らの最大の関心事が<夢を持つこと>であるのが分かったのも収穫だった。

 そんな彼らに大人からの一言を送りたい。

 大人になっても、学生の頃と何ら変わんないよ~(笑)

 声を大にしてそう教えてあげたい。
 40歳を過ぎたワタクシがそう言うのだから間違いなし!!! 

 二日目は残念ながら別の用事があったので見ることが出来なかったが、機会があればぜひまた若い子たちの作品に触れてみたい

タグ:高校演劇祭
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『家族アート』(鳥公園) [演劇]

 金物屋のおにいちゃん、ありがとう!
 金物屋のおばあちゃん、ありがとう!
 ついでに金物屋にお客としていらしたおばあちゃんも、ありがとう!
 あなたたちによって、ワタシは生かされています。また、道案内をお願いしますね(笑)

 会場となるdie pratzeは2度目のはずなのに、やっぱり迷ってしまいました!
 マジでナビ・タイム契約を考える今日この頃であります、はい。

 「鳥公園」、、、初物です。
 伊藤比呂美(詩人)さんの原作を、「包局」の西尾佳織さんが脚色・演出。
 実は女性物を苦手とするTAO、大丈夫なのでしょうか?


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                       『家族アート/鳥公演』
      
 ある家族。
 出張から帰って来た夫。もうしばらく前から耳鳴りが止まらない。娘とはどこかギクシャクした関係だし、嫁さんも今一つ自分のことをいたわってくれない。
 嫁さんは旦那に関心がないわけではないものの、つい突き放してしまう時もある。英会話スクールなどにも通い始めるのだが、それさえも心の空虚感を埋めるには足りないようだ。
 一方、娘は母親の愛情を独り占めしたい。
 母と娘は近づき過ぎて、時にはお互いを罵りあう、愛憎相食む関係だったりする。

 そんな家族の姿は、どこか白々しさもつきまとい、冷ややかだ。
 それでもどこかつながっていたりもする、不思議な関係。

 同姓の視点から眺めると、まず、このちょっと "おかしい" 父親の姿に、したくはないけれども、親近感を覚えてしまう自分がいる。
 出張から帰り、嫁さんがかまってくれないからと、つい、エロ雑誌から切り抜いたお気に入りのヌードをスクラップしたノートでセンズリこいてしまう。苦笑いしつつも、嫁さんと子どもが遊びに出掛けた隙(すき)に、エロDVDの鑑賞と洒落込もうかいな、、、とか考えてしまう、全国3000万人(?)の父親の胸の内、う~ん、わかるぜ!!

 嫁さんは夫と娘のいる今の環境から逃れたいと渇望しつつ、反面、自分を頼ってくる、というか、頼られることにより推し量られる存在意義みたいなものを生きがいと感じたりもする。
 重荷を牽(ひ)くのは、そこに乗っているアナタの為なんかじゃない。あくまでワタシの為なのだ。

 私・ワタシ・わたし、
 他の人ではない、ワタシの為。
 それが家族であっても、それぞれはそれぞれのワタシを必要としているのであった。

 家族は果たして家族足り得るのだろうか?
 それとも、他の誰かが自分にとって必要である以上、やはり家族は成立するのか?
 『家族アート』は、そんな家族のありようを垣間見させてくれると同時に、フッと我が日常の危うさも覗ける作品となっていた。

 注)最初に全体像を把握するのではなくて、まず木を眺めてから、最後に全体像としての森を眺めるような視点が必要かもしれません。


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『リア王』(東京デスロック)PART.2 [演劇]

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                    (入口にはこんな目印が!)

 とんでもなく長~~~~~い、枕(前口上)も終わり、さて、本題に入りましょうか。

 彼らの演ずるシェイクスピア劇としては、昨年『マクベス』を観て、権力争いを椅子取りゲームに見立てて、役者が息を切らしながら、それに一喜一憂するところが斬新で面白かった。
 その発想自体はそれほど物珍しいとは思わないけれど、役者がゼーゼーと息を荒げ、額どころかあごから汗を滴らせての熱演、それも椅子取りゲームの執拗な繰り返しに、疲れを通り越してランナーズ・ハイに至る役者たちの "至福の瞬間" を垣間見せられたようで、笑いながらも感心させられた。

 そして今作の『リア王』。
 配布されたチラシには、「色々想像して会場に来て下さい。絶対に裏切りますから」と、主宰の多田氏の言葉があったので、ボクはボクなりに、
 ①リア王は実は女だった。3人の娘は実は息子だった説
 ②コーディリア(リア王の娘、3女)は死なず、めでたしめでたし説
 とか、知恵の欠片もない予想を抱いて会場にやってきたのであった。一時間間違えちゃったけど(笑)

                         ☆

 ステージ暗転。いよいよ始まりである。
 そこにすかさず「天城越え」(by 石川さゆり)が大音量で流れる。のっけから演歌かよーっと、この時点ですでに意表を突かれる。 
 左右から登れるピラミッド型の変形のようなステージ。そこの中央に赤いランドセルが3つ。これはリア王の3人の娘を表す。ステージに現れた娘たちはリア王(背景にシルエットとして映っている)に、自分がいかに王を愛しているかを熱く語る・・・。
 根本に『リア王』の戯曲があるので、基本的にはそれに沿って進む。

 だが、先にも記した通り、「天城越え」で始まった東京デスロック独自の仕掛けが、そこここに配置されていて、
 ①フランス王のもとに嫁ぐコーディリアのウエディングドレス姿でのカラオケ風父親批判であったり、
 ②娘に冷たくされたリア王に吹きつける風が手持ちの扇風機だったり、
 ③放浪するリア王が客席にまで足を運び、観客に話し掛けたり、
 ④物語のサブ・ストーリーであるグロスター父子の確執を語る息子の名が、グロスター亭エドムンドという落語家の姿をしていたり、
 ④狂人を演じるのに赤フン姿だったり、
 
 ・・・と、これまでには考えられないようなベタな演出が意表を突く。BGMはほとんど演歌ばっかりだし。

 そしてクライマックスは、最近の東京デスロックのお家芸の一つでもある、鬼ごっこ。ステージをみんなが走りまくって苦しくなっちゃう、アレ。

 最後はコーディリアを失い、狂気の淵で死んでゆくリア王。そこに残った者、同じく死んでしまった者、みんながリア王の服を身体から引き剥がし、身にまとう。それはあたかもリア王の背負っていた重荷をそれぞれが引き受けるかのように。

                         ☆

 それにしても意表を突いた構成であった。
 と言おうか、全体の印象派かなりベタな感じ。個人的にはちょっとベタにしすぎじゃないかとも思うが、いかがなものだろう?
 何となく学生演劇っぽい感じがしてしまい、こういうやり方もあるんだろうけど、あれこれいじりながらも、要所要所でドッシリとした横綱相撲とまではいかなくとも、大関相撲くらいの貫禄を観せ欲しかった。ラストはとても良かったけれど。

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『リア王』(東京デスロック) PART.1 [演劇]

 東京でも活躍を敢えて封印し、埼玉県富士見市にあるキラリ☆ふじみホールを新たな活動拠点とした東京デスロックの地元初お目見え。

 同様の「田上パル」で一度この地に足を下ろしているので、今度は時間の余裕を持って駅から歩いてみようと決めた。で、決めたらさっそく道を間違えた。

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                     (銭湯の裏側・・・薪が山積み)
 
  のどかな風景を眺めているうちは良かったのだが、歩いて行くうちに、どーも違うんじゃないか? と、疑問を持ち始めてはや10数分。チラシの裏の簡略化された地図を手に、確認しながら歩いていたつもりではあったのに、自信が無い。
 こんな時は人に尋ねるに限る。
 コンビニのおばちゃんに「富士見市役所へ行きたいのですが・・・」と尋ねたら、「今来た道を戻って、最初の信号を左ね!」と告げられた。
 持つべきは友、じゃなくて、地元のおばちゃん。やっぱり頼りになるわ!

 それでも恐る恐る、こんな道が本当に市役所までつながってるの? と、疑心暗鬼になりながら進む。ちなみにキラリ☆ふじみホールは市役所の隣にある。

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                         (現在地は羽沢)

 どうやら間違ってない。
 これなら何とか辿り着けそうである。

       CIMG3311_512_400.jpg
        (余裕をかまして梅を撮る。でもピントは花じゃなく木に合ってしまった)

 いつまで歩いても広い道にならない。確か前回娘とタクシーで来た時は広い道を突っ走ったはずなのに・・・。不安がふたたび脳裏をよぎる。
 
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                    (おお、富士見市役所の名が!)

 バスで一区間の位置まで近づいた。大丈夫だ、このまま進めば何とかなる!!
 そう信じて歩き続けると、見慣れた(と言っても一度だけなのだが)光景が目の前に広がった!
 目的地の市役所である。
 時間は1時半。途中、牛丼を食べたのを含めれば、かれこれ一時間以上歩いたことになる。
 
 隣接された公園で一休みすると、、、

        CIMG3314_512_400.jpg
                     (ほのぼのとさせられるひととき)

 小鳥が寄って来た。いい天気だ・・・。

 さて、それじゃあ会場へ・・・と思って、何の気なしにチラシを眺めると、な、なんと、開始は3時からとな。
 あれ? 始まりは2時じゃないの?
 という事は、、、1時間間違ってた???
 しかし慌てることはない。まったくの偶然なのだが、今いる公園には市民体育館と図書館が隣接されているのだった。なので図書館で時間潰しをし、改めて2時半に入場したのだった。
 めでたし、めでたし・・・。

 で、いつ本題に入るのかって?

 それはPART.2 にご期待下さい!!!
 (史上最長の前振りだわ、こりゃあ)
 
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『愛の渦』(ポツドール) [演劇]

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                『愛の渦/ポツドール』(2009年バージョン)


 前々から気にはなっていたのですが、見逃していたポツドールをやっと観ることが出来た。
 演目は第50回岸田國士戯曲賞受賞作『愛の渦』。
 新宿のシアタートップス閉館に伴い、そのお別れの意味も込めた待望の再演となった。ちなみに初演は2005年、出演者は♂2人を除いて変わっている。

                        ☆

 舞台はスワッピング・クラブ。
 雑居ビルの一角に設けられたそこは、入口に受付、奥にはL字型のソファ、トイレ、シャワールーム、階上には仕切りで区切られた3つのベッドが置かれている。
 参加費女性1000円、男性2万円(と記憶しているが間違っているかも)。夜10時~翌朝5時までの営業となっている。
 そこに集う女性4人、男性4人、カップル1組の男女、それと店長、店員の計12人のセックスを介しての人間模様を描き出してゆく。

                         ☆

 クラブにやって来る客のどこかおどおどした態度といい、男女が集合して、テーブルを挟んでのこのバツの悪い無言・・・。
 分かるなあ~(笑)
 だって、金出してヤリに来たのは明白だけれど、席に着いた瞬間に、
 「じゃあベッドへ!」
 とはならないからねえ~。
 無駄だとは知りつつ、いちおう会話のようなものをしないとさあ、やっぱり、何だ、その・・・ねえ!
 でも、単にヤリに来てるだけだから、会話って言ったって、ないもの、そんなの!
 「あなたの趣味は?」
 とか聞いたって意味ないし。
 そのあたりの "しらけた間" が、実にリアルに表現されていて、これは経験者のみが描ける箇所だよなあ・・・と、妙に納得してしまった。
 それを瞬時に理解出来た自分の過去の行状は・・・頼むから問わないで下され(汗)

                         ☆

 現代を描くのに風俗を取り入れるのは最も効果的な方法ではある。ただし、風俗は流行り廃(すた)りが激しいから、あっという間に過去の遺物にもなり兼ねない危険も含む。
 このスワッピング・クラブも今ではビミョーに懐かしさを帯びてきてはいるが、見知らぬ男女の初遭遇のこの白々しさは普遍かも。特にお互いの恥部を露出し合うセックスにおいては。

 最初はいかにも場馴れしない面々も、一度勇気を出して見知らぬ他人とセックスしてしまうと、逆に、恥ずかしさを分け合った仲間意識みたいなものが芽生えてきて、こんどは過剰に盛り上がってゆく。それはどこか無理をしている感が否めないものの、ある種の熱気みたいなものだ。
 それでも、いない人間(セックス中で)の悪口を言ってみたり、それに同意する者の過剰で意図的な仲間意識などが、妙に滑稽だったりもして、やはり歪(いびつ)な関係なのは否定しようがない。

 途中、若いカップルが加わり、女性がまず他の男性とセックスする。次いで片割れの男が別の女性とセックスをしようとするも未遂。挙句に、
 「何でお前、オレ以外の男とやったんだ!!」
 と、女を問い詰める有様。
 村上龍好きなそのカップルは、彼の描く小説の世界に憧れて、いわばファッション感覚でここを訪れたわけだが、その底の浅さを露呈して、すぐさま退散というのも笑える。

 また、親の金で初めて訪れたニートの青年が、相手の女に恋心を抱く、ベタだがよくある現象も描かれていたりして、本当、細部までしっかり描写されてるなあと、ここでも感心してしまった。

                         ☆

 朝を向かえ、盛り上がった彼らは、また一緒に集まろう、、、と、意気投合する。
 しかし、従業員の、
 「お互いの連絡先のやり取り禁止、ストーカー対策で帰りも時間差ね」
 の一言で、結局はまたバラバラになってゆく彼ら。
 
 この場に何を求め、何を得たのか、得られなかったのか。
 セックスは出来た。もちろんそれを求めたわけだが、じゃあ、一瞬のセックスの快感が、その人の人生を豊かにしたのかと言ったら、それは多分、ない。
 何も変わりはしない。今も、これからも。
 それでも、彼らは再びそこを訪れるのかも知れないし、もしかしたらまた別の場所を訪れるのかの知れない。
 ただそれを繰り返すだけ・・・そこに何もないのを知りながら・・・。
 劇中にもあった通り、射精後の妙に冷めた虚しさからは、どうやらボクらは逃れられないようだ。
 それが現代人の宿命なのだろうか?

 妙な実感と供に、とても面白く拝見させていただきました。
 ポツドール、いいねえ。

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芝居について思うこと(ブレイクタイム♪) [演劇]

 ボクの周囲には芝居を観る人がほとんどいなくて、寂しい思いをしています。
 映画好きはあちこちにいるんですが、芝居好きは・・・片手で悠々余ってしまうくらいです。
 未だに「芝居」=「女性」みたいなイメージがあるらしく、映画好きに芝居の話を振っても、
 「芝居? 俺はちょっと・・・」
 と、返されるのが関の山。
 映画とのこの温度差って何なんだろう・・・と、よく思ったりします。

 芝居の良さってのは、つまるところ、目の前で役者が演じることのリアリティだと、最近よく観に行く『東京デスロック』が主張している通り、やり直しのきかないその場限りの真剣勝負の妙味が刺激的で、心ワクワクします。

 それと、映画にはない芝居独自の表現方法があり、こんな話、映像化は無理だよね、と、思われるものを作品化する楽しみも大いに 、、、あると思います! (天心木村調で)
 最近読んだ『サンプル』の初期上演台本等は、まさにそれに当てはまるのではないでしょうか?

 正直、作られた感動とか、いらないの。
 みんなが目に涙を浮かべて、
 「人間だって、捨てたものじゃないよね~」
 とか、訳知り顔で語っても欲しくない。
 昔、泣くために仲間を募って、"泣ける映画" をハンカチ持参で観に行く人たちの話をニュースで目にして、こいつら、狂ってる!と、内心恐ろしくなりました。
 泣くことが精神的な浄化の作用を伴うのは広く知れ渡った事実ではあります。しかし、<感動>はあくまで過程を経た後の<結果>であって、何が何でもの<前提条件>じゃあないでしょうに。
 そんな<普通の良い人>ほど、恐ろしいものはありません。
 <善意>という名の<悪意>が、<感動>という衣を羽織り、<世間>という世界を我が物顔で練り歩く、、、まったく恐ろしい限りです。

 それじゃあ、ボクは芝居に何を期待して足を運ぶのでしょうか?
 <感動>を前提条件としないわけですから、それ以外のものということになります。
 一言で言うと、
 凝り固まった<常識>を、粉々に粉砕して欲しいの。
 え? そんなのあり? ヤバいんじゃないの~!
 自分の中で知らず知らずのうちに築かれた、これでいいんだ、こういうものなんだ、という、固定観念を、ダーッ!!! と、ぶち破って、アッカンベーをして欲しいのだ。
 これまで考えてもみなかった<新たな地平>を、どうだ! と、目の前に見せられたら、やられた~! と唸って、頭を垂れよう。
 そんなスリリングな経験を求めて、劇場に通うのだ。

 だから芝居よ、常識人の、我を蹴飛ばせ!!!

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『改造★人間』(田上パル) [演劇]

 地元埼玉県の、でも家からはかなり遠い富士見市に行ってまいりました。それも娘と

 何故かと言うと、富士見市にある文化会館、キラリ☆ふじみホールがカンパニー制を打ち出し、ホール付きの劇団を3つ抱えたのだった。
 その中にTAOの好きな「東京デスロック」も含まれていて、そのあたりを調べていたところ、今回観ることとなった「田上パル」という聞き慣れない劇団もあり、ホームページを覗くと、何やらドタバタ熱血男汁系の劇団なのが分かった。

 普通ならこの手はあまり観ないのだが、逆に、これなら娘も観れるんじゃないの? と思い、思い立ったら強引に、わけも分からぬ娘を誘い出してみた次第。
 あまり活発に動こうとしない娘に、芝居というまったくの初体験をさせたらどうなるの?
 親としての(一方的な)思いやり&運動不足解消&世の中はバカバカしさで満ち溢れているのを教える優しさ。
 これってやっぱり親心だと思う。たぶん。

                         ☆

 東武東上線鶴瀬という駅からバスで・・・と行きたいところなのだが、縄跳びをしていて足首を怪我している娘のことを慮(おもんぱか)ってというか、ちょうど良いバスの時間が自分的にはなかったので(時間ギリギリに行くのが嫌なのだ)、多少お金はかかってしまうがタクシーを走らせた。ちなみに運転手さんは女性でした。一瞬期待した。でも、オバサンだった(失礼!)。

 歩くにはちょっと難儀な距離、畑のど真ん中に建っているのは、やはり埼玉ならでは。
 まだ建物は新しく、これから発展させ様がたくさんありそうなところがなかなか良い。後は賑わいか?

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 入口はこちら。ね、出来立てって感じが漂ってくるでしょう? あまり飾らないこのシンプルさがスマート。

 入口横の駐車場では、高校のテニス部(男子)が集まっていて、顧問の先生が、今日は芸術鑑賞会だとか説明していたのには笑った。運動部でもそんなことあるのね。不思議。

 この建物を見て、フッと想い出したのが、東京都現代美術館。池があったりして建物の中に自然な空間を取り入れているところに類似点があるような気がします。

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 ホール付きの劇団(正しくはダンス・カンパニー)になったモモンガ・コンプレックスの方々が練習していた。ガラス張りになった丸いスペースは中に入ってもOK! って、入っちゃいましたけど。

                         ☆

 さて、初めて観る「田上パル」はというと?

 舞台は山奥の人里離れた見知らぬ場所にある断食道場。
 ここで人は世俗の垢を洗い流し、身体に溜まった毒素を放出し、生まれ変わった身体と心で世間に戻ることを課した、ありがたい場所なのだった。
 ここの卒業生の西田(♀)は、世俗にまみれた仕事仲間(♀)を半ば騙して連れて来る。以前彼女と一緒に修練していた鷹尾(♂)、猪股(♂)はまだ卒業出来ずに修行の途中だった。彼女らを道場破りだと勘違いした鷹尾と猪股は・・・。

 ストーリーなんて説明してもしょうがないのでや~めた!
 のっけから胴衣を着た男2人VS紛れ込んだ女4人の騒々しさ炸裂のバカ騒ぎの連続!それも男たちの口から放たれる台詞は、全編、熊本弁(?)という奇妙さ。いや、奇妙なんかじゃないんだろう、地元では。しかし、ここは埼玉なのだ、かなりの違和感が漂っている。
 例えば、
 「でも、看板は、渡さんばい。言っとくけど女でも手抜かけんね」
 まあ、こんな具合。

 途中、解脱して背まで縮んでしまった芦田を巡るドタバタと、修行仲間に密かに砂糖を盛っていたいじめられっ子の右翼によって明かされる秘密によって、この断食道場の嘘が暴かれ、それによってこれまでの修行の無意味さを感じてしまうという話になって行くのだが、ドタバタの中にも現代人の心のモロさや不安が、隠し味のように表立っては現れないものの、根底にはあるような気がしなくもない。錯覚かも知れないけれど・・・。

 初めての演劇体験となった娘は思いの他楽しめたようで、帰りの電車の中で、印象に残った場面の話をしていた。断食道場の師範代がステージをはみ出していたのがおかしかったとか、お腹を下した練習生の態度が笑えたとか、まあ、そんな話。

 家に帰ると、記念にと購入した上演台本に、男女別に何故かマーカーで色を塗り始めたのだった。良く分からないが、そうしたいと思わせる "何か" が、彼女の中に芽生えたのかも?
 これ ↓
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 これなら演目によってはまた観に来れるかなあ・・・とか考えるTAOパパなのだった。


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『ル・ス・ソル/土の下』(ピーピング・トム) [演劇]

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                    『ル・ス・ソル/土の下』

 カテゴリーは「演劇」になっておりますが、正しくはダンス、それもコンテンポラリー・ダンスであります。
 う~ん、ダンスの舞台を観るのはこれが初めて。それもただのダンスじゃなくて・・・。

 ピーピング・トムと命名されたこのダンス・ユニットは、もともとベルギーで活躍していた男女が意気投合して結成された。名前の由来のピーピング・トムとは俗語で<覗き屋>を意味し、このユニットの "刹那的で危険な香り" を上手く表現した名前だと思う。

                         ☆

 舞台一面に敷き詰められた土。そう、ここは土に埋もれた部屋。テーブルもソファも半分以上が埋もれ、窓からは大量に土が室内に入り込んでこている。
 老婆がミニチュアの家に火を点ける。メラメラと立ち昇る炎、漂う煙、鼻を突く異臭。
 そこに男Aが登場。奇妙なジャンプを繰り返した踊りを踊る。足先から土が飛ぶ。もう一人の男Bも遅れて現れ、でんぐり返しのようなこれまた奇妙な踊りを踊った後、二人はバケツに土を汲み捨てるが、土はいっこうにに減らない。

 ガブリエラと呼ばれるまだ若い女性は、花輪を手にしての登場。
 彼女のダンスは起き上がりこぼしみたいで、これまたユニークそのもの。白い服がすでに土で汚れてしまう。

 一方、太った女がドイツ語で何やら喋っている。
 どうやら新しい仲間(死者)がやって来たようだ。
 一列にならんだ老人たちは、先にいた老婆に一人一人親愛の情を示す挨拶を交わす。
 まるで70年代に大量に製作されたエロティックな女囚物の映画に登場するいかめしい看守のように、太った女は彼らの名前を読み上げる。
 アンディ・ウオーホール・・・クレオパトラ・・・淡谷のり子・・・向田邦子・・・などなど。

 どうやらここは死後の世界らしい。
 土に埋もれた死後の世界で、彼らは歌い、踊り、バカ騒ぎし、痴態を覗かせ、奇妙な時を過ごす。
 それはバカバカしい冗談なのか、死に司られた危険な遊戯なのか、失われた生への渇望なのか、誰も分からないまま・・・。

                         ☆

 観るべきシーンは多く、特に印象に残ったのが、

 ◆老婆のぎこちない動きによって身体がムズムズし始めた太った女は、次第に身体を震わせ、それがピークに達すると、ガバッと白衣のような服を投げ出し、シルクのスリップ姿で突如として激しく踊り出す。まるでニワトリのように左右に広げた手をバタバタ動かし、胸も腹も太腿も振るえ、まるで肉の塊(かたまり)の振動のようで笑いを誘う。ほとんどトランスである。
 また、彼女の本分はオペラ歌手らしく、ところどころで披露される歌声はこの上もなく美しく、その歌声が響く時、土に覆われた死後の世界が一瞬天国であるかのような錯覚に陥ったりもする。

 ◆生前の乱れた男関係を想像させるようなガブリエラと男二人の奇妙な、しかもエロ度満点なダンスも印象に強く残る。
 まずは男Aとの、お互いの頬をくっつけあったままでのダンス。身体を機用に回転さながらもけっして離れず、よほど身体が柔らかくないと不可能なそれは、男女の情愛を上手く表現している。

 ◆それと対を成すのが男Bとのダンスで、こちらはお互いの腰と腰がピッタリと重なったままの複雑怪奇な動きに圧倒させられる。時には後背位、時には正常位、時には駅弁ファック(昔のAVみたいに)、時には脚と脚を交差させたままの体位と、とにかくそれらがめまぐるしく入れ替わり、一時も休むことを知らない。
 お互い身体は土でひどく汚れ、ガブリエラなど土で汚れた下着丸出しの熱演である。セックスそのもののようなこんなダンス、初めて観た。

 ◆さらにすざまじいのが、ガブリエラと男A&Bの三つ巴のダンスで、先の二つのパターンを合致させ、さらに複雑な動きをする。こうなってはドロドロの愛欲にまみれた禁断の三角関係である。

 ◆一方、80歳を越えるマリア演じる老婆と男Aの、たぶん老婆の回想シーンに当る、キスをしながらのダンスにも驚かされる。
 さすがに演じ手とはいえ、実際にキス(それも唇に)する男Aに同情しながら眺めてしまった。だって、ねえ、若い女性なら役得とも取れるけれど、相手が老婆ではさすがに・・・ねえ。
 でもボクの周りにいたおばさんたちには受けていたようだった。

 そんな饗宴の数々を披露しつつ、舞台は唐突に終焉を迎える。

                         ☆

 セリフはほとんどなく、ダンスと状況設定によって魅せてしまうところなど、かなり計算し尽くされており、このダンス・ユニットの実力のほどがうかがえる。ダンスもきれいに踊ることを目指すのではなく、より独創的でひらめきに満ちた、ピーピング・トムでしか観れないまさにワン・アンド・オンリーな世界。
 すべてを理解出来たとは思わないが、特異な状況の中で繰り広げられる美しくも儚(はかな)い物語は、やはり魅力的なのだった。

 追記:舞台の終わった後、ステージに敷かれた土を触ってみた。土というよりも湿ったおがくずのようだった。

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『伝記』(サンプル) [演劇]

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                     『伝記/サンプル』(チラシより)


 前回初めて観た『家族の肖像』が思いの他楽しめたので、新作であるこの『伝記』にも足を延ばした。
 面白かったら次も観る。
 何気にワタクシはいいヤツなのだ。誰もそうは言ってくれないけれど。

 『家族の肖像』は、家族的な人間関係を失ってしまった我々の家族物語とでも呼ぶべき一風変わった作品であった。
 そして今回の『伝記』は、、、、、

                         ☆

 朝倉シェルターの創業者であった偉大な父親の『伝記』を書き、発表イベントの進行を資料部の3人とともに考える、現社長の朝倉健の前に、父親の愛人と名乗る老婆サチとその息子半平太が突如現れる。
 半平太は自分が朝倉の子どもであり、サチは妊娠の事実を朝倉に告げたため、あっさりと捨てられたのだと、恨みを込めて語り、長男の健に自分たちのこともありのままに伝記に加えて欲しいと訴える。
 果たして伝記の発表は無事果たされるのか?
 こじれた人物関係はどうなるのか?

                         ☆

 ・・・などといちおうストーリーらしきものを書いたものの、『伝記』が無事発表されるかとかは、正直どうでも良いことであって、作・演出の松井周氏だって、そんなことを気に掛けているわけではまったくない。

 そもそも『伝記』とはどこまで真実を伝えるものなのか?
 書き手の主観が入る限り(入らない書き物など有り得ないだろう)、真実は真実ではなく、事実は単なる過去の断片でしかなく、それと事実はまったくイコールではない。

 愛人とその息子の出現をキッカケに、『伝記』に込められた思いは崩れてゆく。

 故人は何も語りはしないのに、その周囲の者たちがまるで自ら掘った穴にはまり込むかのように、次々と自己崩壊を始め、やがて心の中に仕舞いこまれていた個々の "後ろめたい恥部" が白日のもとに晒(さら)される。
 撒き散らされた腐臭の中、それぞれが溺れ、最後は無意味なドタバタ騒動を繰り広げつつ、唐突に芝居は終わりを告げる。

 『伝記』=『歴史』と言葉を書き換えてみればはっきりするのだが、日頃我々が接している『歴史』が過去に事実かなんてことは分かりはしないのだ。
 『歴史』は勝ち残ったものが自分の都合の良いように改ざんした、過ぎ去った出来事の模造品でしかない。しかし、それに文句を言えないのは、敗れ去ったものが異を唱えようとしても、すでに抹殺されてしまっているのだから、そもそも不可能なこと。

 松井周氏の描く『伝記』は、死者により生ある者が平衡感覚を失いアタフタする、バカバカしいほどの悲喜劇なのだ。蛇が自分の尻尾を咥えてグルグル回るように、問題は死者じゃない、今のア・ナ・タ・だ!!!

タグ:サンプル
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