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『いつかの森へ』(海市-工房) [演劇]

 これまでこのブログでも、演劇界唯一の良心とか、書いてきた。
 まず物語ありきの姿勢は、奇抜な設定や舞台装置がよしとされる現代において、見方によっては古典的、もしくは時代遅れにも取られかねない。
 それでも物語を通すことによって初めて語られることもあるだろうが・・・という作者の心持ちは、ずっと変わらないに違いない。

 意味深なタイトル『いつかの森へ』の "森" とは、実際の森ではなく、人の心の奥深くに隠されえいるた暗部の比喩。
 主人公の女性は、過去の呪縛から逃れようと今を必死に生きるも、何気ない瞬間に引き戻されてしまいそうで、いつもビクビクしている。
 一方、男は、その女性とはまた違った捉え方ではあるが、やはり過去の呪縛を抱えている。
 そんな2人が出会う。それもある事件以来、久々に。
 事件を中心に、左右対称とでもいう位置にいる二人の再開は偶然の産物なのか、それとも必然か? その瞬間から錆びついて動かないはずのネジが、静かに廻り始める・・・。

 ただ、いつもと違うのは、男との出会いによって、(表向きは)平凡に暮らしていた主人公の周辺がざわつき始めるのだが、男にだらしない妹との姉妹関係にけっこう比重が置かれ、男の存在感が薄く感じられてしまうことだ。
 会社をクビになった夫婦の、特に奥さんの話や、足の悪い高校生の花の存在が、なんでそういうキャラを与えられているのかがいまひとつ理解出来なかった。そうでなければならない必然性とはなんだったのか? 
 断片でしか語られない過去の物語をこちらがちゃんと把握していないという思いを抱きつつ、どこか中途半端に放り出された感が拭い去れない。

 エンディングはこれまで同様、一縷(いちる)の光を暗示して終わる。
 そこでホッと安堵するものの、途中の展開に、ちょっと納得出来ない自分もいたりしてしまう。
 次作に期待!

タグ:海市-工房
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『アメリカン家族』(ゴジゲン) [演劇]

 注)今年4月に観たにもかかわらず、書きもらしてしまった作品として


 アンチ友情! アンチ幸福! アンチ家族!
 でも、やるせないほどの青春! 熱血! バカパワー!

 ゴジゲンがいいのは、世間がこうあって欲しい、本当はこうなんだよ、といった、性善説に基づいた予定調和と願望を笑い倒すところである。
 武者小路実篤の『友情』は尊いが、実際、あんなの嘘だって! 女を目の前にしたら、ヤリたさ200%に、自分本位に突っ走るだろうが!!
 みんなそう思っているのに、なんで本音で物を言わないんだよ、お前ら!!! なのだ(笑)

 『アメリカン家族』はゴジゲン主催の松井大吾氏の実話(らしい)をベースにしつつ、ある家族の物語を描く。
 ある日、子どもたちを残して突然家を出て行ってしまった母親。
 残されたのは、暴君の父親と、ヤンキーな長男、何をやるにもドン臭い二男、自閉症の三男。
 長男の誕生日に久々に帰って来た姉、母親の知り合いらしい謎の男、長男の彼女等が入り混じり、歪んだ家族のためのバースデーパーティを開催しようと奮闘する。が、それは今まさに崩壊しようとする家族に対しての、自爆テロのような危険を含んでいた。

 バラバラならいっそ完全に砕け散ってしまえば、いっそせいせいするのだが、現実にはそれもままならず、ほころびた糸を縫い直そうとすればするほど、ますます糸はこんがらがり、手に余ってしまう事態に陥るだけとなる。
 普通の話なら、大きな転機が訪れ、事態を(奇跡的に)修復する方向に向かうはず。それがすなわち定番だから。しかし、ゴジゲンの場合、案の定、そうはならず、混乱は混乱のまま、家族はやはり崩壊したままなのである。
 それでも、代わり映えしない関係の中に、ダメならダメなりに、いいじゃないか・・・的な開き直りが見て取れるラストに、ゴジゲン流の、今が最悪でも、それでもやっぱり明日はやって来ちゃうし! という視点が存在するのが、救いと言えば救いかもしれない。

 
タグ:ゴジゲン
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『美しきラビットパンチ』(ゴジゲン) [演劇]

 ゴジゲンスタイルも完成の域にちゃくちゃくと近づいているのを思わせる出来。
 それでもって、
 「新趣向としてミュージカル仕立てもあります!」
 的な、やっぱりてんこ盛りが丼から溢れてしまう、やけくそのてんこ盛りなのだった。ああ、もう食えねーっ!!!

 突然ですが、森田公一&トップギャランの永遠の名曲『青春時代』を引き合いに出すまでもなく、青春時代が輝いていたなんてのは、それが終わってしまった者の極度に美化された感傷の中の産物なわけだが、ゴジゲンの芝居を観るたびに、そんなことを思い浮かべないではいられない。
 少なくともここには、負け犬どもの青春しかない。もしかしたら<青春>の名を口にするのは、彼らだけの特権であるような錯覚すら覚える。ああ、なさけね~ぇ・・・。

                            ★

 STORY:部隊は高校のボクシング部。
 いじめられっ子のもっすー、彼を連れて来たがゆえに入部させられてしまうずん、なぜか太っているコーチ、いまどきまっすぐ過ぎるスポーツボーイのナオキ、昔は強かったのに、ある理由でへなちょこになってしまった服部、地域一番の不良になりたいトム等、練習の虫のナオキ以外、どいつもこいつ癖のあるヤツばっかり。
 練習はサボる。やりたくないならさっさと部を辞めればいいのに、それもせず、ただだらだらとそこに集まり、いかに練習をサボったかを面白おかしく笑いあうばかり。そんな中、もっすーは強くなりたいと練習に参加しようとするも、はなから相手にされず。
 それでも大会は10日後にせまり、ナオキと彼をライバル視するトム、他に該当者なしのため不本意ながら選ばれてしまったずんの3人が大会に出場することとなった。
 一方、彼らの男子校に他校の生徒が集まることになり、当然そこには女子生徒もいて、、、ということは女子トイレの数が足りず、男子トイレを解放するはず、、、なので、ボクシング部のトイレも使用可となり、、、だから!!! 覗き穴を壁に掘り、その日を待つが、運悪くボクシング大会と重なってしまったものだから、さあ、たいへん・・・。

                            ★

 まあ、ひとことで言ってしまえば、しょーもない、ダメダメ学園物語なのだ。
 ここには感動熱血学園教師などいない。いるのはやってくる他校の女子生徒の肛門をどうしても見たいコーチだったりして、この設定だけでテレビドラマに成りようもない困りもの。そんなコーチと一緒になって、元来は強いはずなのに、ひょんなことから挫折してしまった服部は、自分の中にあるすべての存在意義を、覗き穴の先のまだ見ぬ光景へとねじ込んでゆく。理由はわからなくもないが、なんとも情けない・・・。

 男子高校を舞台にすることで、世間に認知された青春群像劇を笑い飛ばすゴジゲンなのだが、じゃあ、笑い飛ばしてクールに決まるほどの自己もなく、だもんだから、その場限りの笑いと、無理矢理なマイナス思考の連帯感だけでつながった<仲間>と、傷の舐め合いをただただ繰り返すだけなのだ。
 自分たちが取るに足らない存在でしかないことにとっくに気がついてはいる。
 「でも、気づいてしまったからといって、じゃあ、どうしろって言うんだよ!」
 なのだ。
 「人はそれでも生きてゆかなければならないのなら、バカを装って道化にでもなるしかないじゃないか!」
 そんな独り言が聞こえてくる。
 だからみんなハイテンションで、無理矢理笑って、くだらないことに夢中になるフリをするんだろう。
 でも、フッと力が抜けた時には、笑いの何倍もの寂しさに襲われる・・・。それが嫌だから、無理しても笑うのさ・・・。

 そこから導き出される、根拠のない自己肯定の中に、一瞬、未来を見るが、それもつかの間、醒めてしまえば、そこは荒野がただ広がっているばかり。
 足を向ける先すらわからず、ただ立ち止まって、うろたえるしかない<青春物語>。
 『美しきラビットパンチ』のタイトルは、そのまま『哀しきラビットパンチ』でもある。それを美しいと呼べるのは、20年後の生きながらえた者だけの特権に違いない。 

 
タグ:ゴジゲン
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『自慢の息子』(サンプル) [演劇]

 『自慢の息子』というタイトルからして、やはり<家族物>であることは明らかで、ああ、やっぱり松井周氏は<家族>にこだわっているんだなあ・・・と、一人納得してしまった。ただし、<家族>なる形態がこれまでのように維持出来なくなっている現代において、新たなる家族の姿を模索しつつ、そこにも安住の地は約束されていないかも、と、シニカルな視点も含みつつ、物語は進んで行くのであった。

 自らが統治する王国、正(ただし)を建設した自慢の息子こと、正(ただし)。と、言葉にすると格好良いが、単に自分のアパートの一室をそう呼んでいるような気配も濃厚。時々、隣人の女が洗濯物を干していたりする光景も見える。
 そこへ母親と、精神的な近親相姦兄妹が、ガイドに案内されて国を訪れる。そこは大きくて白い布が何枚も敷かれた場所だった。
 若い女の入国に、国王には后が必要だろうと、鼻の下を伸ばす正。周囲を見ると王国の住人は彼ら以外には小さな人形がいるのみ。ちなみに小さな住民は宅配便で送られてくる(ということは単に購入しただけなのだが)。どうも王国の存在も曖昧で、単なる引きこもりの集団生活のようにも思える彼らに未来はあるのか?

                            ★

 母=息子、兄=妹、隣人の主婦=その息子、単純に登場人物を並べて関連付ければ至極単純なれど、そうは問屋が卸さないのがサンプルの芝居で、個々の結び付きがお互いにプラスに働くはずもなく、例えればマイナス同士の依存症なのだ。
 そのマイナス同士にしても、同じ方向を向いているならまだ救いもあるのに、バラバラだったりするものだからなおさら性質が悪い。
 過去のサンプルの作品を観ると、成り立たぬ関係を無理矢理成り立たせているようなところが多々見受けられるし、なんか近作になればなるほど、どんどん、バラバラになっていっているような気もする。ここでも関係はへその緒のようにつながり、それに影響されるのだが、どうもつながりながらも、各自が勝手に自分の思い込みの中にはまり込んだままなのだ。
 互いに勝手な思い込みに浸りながら、ねじれた方向に突き進んで行く。だから結局、呪縛からは逃れられない。逃れられないなら逆に徹底的にそこにからむのかというと、それも違い、自分の世界に固執したりする。
 この押してもダメ、引いてもダメ状態のまま、自分の妄想で作り上げた世界の中で中途半端に生き永らえて行く・・・。

 このイキそうでイケない中途半端なセックスのようなもどかしさが、2010年のここ日本国の我々の自画像なのだろうか?
 戦争もなく、極端な貧困もなく、教育水準も高く、長寿世界一、それなのに自殺率も世界トップクラス。
 テクノロジーは発達し、誰とでも仲良くつながっていられる夢の国、決して大人になる必要のない国。
 (マイケルもこの国に移住すれば死なずに済んだかもしれないのに・・・)
 もしそうなら、我々は過去、誰も遭遇したことのない悲劇の真っただ中に存在していることになる。ああ、これってやっぱり不幸じゃない???

タグ:サンプル
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『ハコブネ』(サンプル) [演劇]

 注)今年2月に観たにもかかわらず、書きもらしてしまっていた作品として


 『家族の肖像』『伝記』『あの人の世界』の最近の3作を観て思うのは、作家の<家族>というものへのこだわりの強さだ。
 ■家族としての役割が形骸化し、その意味が曖昧としてしまった昨今、それでも家族を模索する登場人物たち。
血のつながりなんてなくても家族足り得るのじゃないか・・・と(『家族の肖像』)
 ■かと思えば、家族とは血のつながりがあって初めて家族と呼べるんだ、という、昔ながらの家長が、しかし、自分の伝記を書くにあたり、その確信が揺らぎ、崩壊に至る(『伝記』)
 ■複雑に入り組んだ人間関係は、あの世とこの世にまたがって、それでもって、更に人間と犬が入りくりに・・・。
 誰が誰と、あいつがこいつと、離れ難く結び付き、結び難く離れる。それでもこれも家族の始まりの終わりの始まり???(あの人の世界)

 さて、サンプル第四弾(個人的に)は、九州のいち地方都市との提携という、ちょっと変則な事情ながら、作られた作品はまぎれもなく松井周のもの。歴代の主演を演じる古館寛治の、髭にメガネ顔を目にしたとたん、ああ、「サンプル」だあ~と、無条件に反応してしまうようになってしまった。

 就職難も都会に比べて一段と厳しい地方都市の配送センターらしき職場。
 ラジカセで軽快な音楽を流しながらの、まさに流れ作業は、キビキビとはいかないようで、適度にタラタラ、途中で滞りながら進んで行く。
 拡声器を手に、号令をかける工場長。彼は彼なりに従業員を気遣い、優しい声などかけるのだが、社員&バイトの人たちには、あまり好かれているようには見えない。

 キーワードである「家族」はここには出て来ない。それでも社会を構成する会社という単位においては、擬似家族と呼ぶべき集合体が確かに存在する。
 工場長が家長たる父親であり、従業員は子どもたち。長兄、次兄、長女、次女、幅広い年齢層が時間と場所を共有し、生活の一部を共に過ごす。
 工場長は気に入った女性には色目を使い、仕事の遅い青年には、容赦なく声を荒げる。
 そんな家長の態度を苦々しく思い、地位の転覆を図る長兄。
 無意味な威厳と赤裸々なへつらいにNOを付き付けられ、工場長の地位を奪われてしまう彼は、いち社員として働くも、ついに堪忍袋の尾が切れて、暴発!!

 この爆発の仕方が松井流で、な、なんと、工場長は髭づらに女装、ハイヒールまで履いて、好き勝手! おまけに女言葉!!
 『伝記』に続いて、ここでも威厳は転覆され、地に落ち、無慈悲に放り出されるのだった。
 それでも工場は別の人間をすげ変えて進んで行く。
 ざわついた職場も、長が変わっても別段向上するでもなく、それなりにまとまり、仕事はいつものように流れて、またいつもと変わりない風景が当たり前のように広がるだけだった。

 『ハコブネ』という意味深なタイトルは、現在(2010年)の日本のどこにでもある地方都市をモデルケースとして、ということは、これが日本の一般的な風景でもあるわけだが、記録しておく(箱舟に乗せておく動物のように)必要性を提示するものなのかもしれない。

タグ:サンプル
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『たゆたう、もえる』(マームとジプシー) [演劇]

 芝居もなかなか観る時間が取れなくて、がんばれ、月一シリーズとして、なんとか継続したいなあ・・・と、自分を鼓舞してるところ。

 この作品を観たのは、実は2月中旬なのだが、書きそびれていて、今になってしまった。
 悪いことに、ひと月遅れとかになると、記憶が曖昧で、細部をほとんど忘れているのに唖然とさせられて、おいおい、どうする? 状態なのだった。恥ずかしいことに・・・。

                         ★

 「血は水よりも濃い」
 この作品を一言で語るとしたら、これしかないだろう。
 昔からさんざん使われてきた言葉。ゆえにその響きは重い。
 血のつながりこそが最初の、そして最後の絆であり、恋愛や友情のように、成立しなかったら簡単に切れるたぐいのものではない。生まれてから死ぬまで(いや、死んでからもか)、この関係は続く。
 『たゆたう、もえる』は、姉、妹、弟の3人の子ども時代から、家族を持って生活するようになる大人時代までの約30年ほどを描く、家族という名の時代史でもある。
 
 そんな大河ドラマのような時間の流れを、一時間数十分の中に凝縮する方法として、脚本・演出を手がける藤田貴大氏が取ったのは、時間と場所をいったん解体し、再構成するものだった。
 子ども時代の姉妹の仲の良い戯れやいさかいが、数十年後の大人になった時に、まったく同じように繰り返され、大人同士の口喧嘩が、実はすでに子ども時代にまったく同じようにされていたりと、デジャヴなんてものじゃなく、まさに繰り返されるのだ。
 大人になってそれぞれの生活が中心になっても、年一回実家に集まると、薄まったはずの関係は、とたんに以前のままの濃さを取り戻す。そして何度も繰り返される衝突。

 いっそすべてを捨てて、さっぱり出来たらどんなに楽だろう・・・。
 誰もが幾度そんな思いに囚われたことか。忘れてしまいたい・・・、でも、それは不可能なのだ。
 たぶん、人がこの世に誕生した瞬間から与えられた<業(カルマ)>に違いない。ならば好むと好まざるにかかわらず、それと付き合ってゆかなければならない。そういうものなのだ。

 それにしても藤田氏は、よくこんな風に切り貼りして、矛盾も起こさず終着点まで駆け抜けられたものだ。まさに驚嘆に値する。話自体はシンプルなものの、きっと乱数票を作成して、ああでもない、こうでもないと、頭を悩ませたはず。

 また一つ興味深い劇団を知ることが出来た。
 知らないものを知る楽しみ、いつだってこれに勝る楽しみはない。


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『友達の友達』(友達の友達・第一回公演) [演劇]

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 正月は、四の五の言わず、楽しくしていたい。
 普通、誰でもそう考えるもの。
 なので、そんな類の芝居を観に出掛けた。

 サモ・アリナンズの二人&最近引っ張りだこの内田滋(ちか)がお送りする、脱力系の引きつったお笑いの数々に、気を楽にして身をまかせてみましょうか。

 話は一話10分程度のショートショート。
 笑いの種類をあえて分類してみれば、「すれ違いの妙」とでも言いますか。
 何か噛み合わないんだよね、話が。
 どこにでもいる、ごく普通の人達なのに、なーんか、ちょっとずつ変!
 そんな話です。

 ◆"知り合い" と"友達" の微妙な差とは?
  全員が知り合い、もしくは友達なら、何の問題にもならないのに、仲間内で一人だが違ったら、それは本人にとっては一大事!
 ◆外人教師と生徒の別れ。
  ワタシハ、キミタチノコト、イッショウ、ワスレナイ・・・。
  そう言ったそばから忘れてゆき、過去の楽しかった出来事はおろか、生徒達の名前さえ忘れ、挙句の果てに自分の行き先まで忘れ・・・。
 ◆友人の病気見舞いに彼の家に訪れた2人は、彼の看病をする姉と会い、おかゆを御馳走になる。食べ終わったそばからお金を請求され、???
 それなのに姉は自分の正当性を微塵も疑っていない。え? わたし、何かおかしなこと言った?

 とまあ、こんな感じで、ルーズな笑いが展開される。
 超マジメに評論すれば、《現代人が陥った人間関係の喪失》とでも呼ぶべきなのかもしれないが、それを言っても野暮ってもんでしょう。
 ここは素直に、
 へんなのーっ!!
 とか言いながら、笑い飛ばすのが正しい観賞のし方だろう。
 何てったって、酒は飲んではいないものの、まだまだおとそ気分なのだから。


 追記:内田滋は、ちょっと下世話なところが、いいと思います!!!
 
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『垂る』(ポかリン記憶舎) [演劇]

 これは真冬(観賞したのが12月だから)の怪談噺なのだろうか?

 遊覧船からのきれいな夕日を眺めに船着場を訪れた青年と少女。今年最後の出向にはまだ1時間あり、待合室のベンチに腰掛けて時を待つ。
 そこにもう一組のカップルと、絶えず誰かに携帯で電話しているOLが同じようにそこにやって来る。
 取りとめのない会話がそれぞれの間で遠慮がちに進められるが、相手に向けられる笑顔の中に、どこか暗い影のようなものがうかがえる。
 それが何故なのかはわからない・・・。

 そんなところへ一人の老女が現れ、船に乗るなと告げる。
 夢の中で若い男が乗客を次々と刺し殺していたと・・・。
 バカバカしいと一笑に伏すものの、その言葉がじんわりとそれぞれの思いを侵食し始める。
 もし、事件が本当に起きたら、
 もし、今日が最後の日だったら、
 冗談の中に知らず知らずのうちに忍び込む、避け難い感情はいったいどこから来るのだろうか?

 遊覧船の待ち人に加わった車椅子の老人は、しかし、歩けるにもかかわらず車椅子に乗っていた。死んだ息子の替わりだと。
 一方、携帯を手にしたOLは、以前付き合ったことのある男にそっくりだと、まったくの他人の青年を追い詰める。
 「さて、どこからやり直しましょうかしら?」

 仲が良さそうに見えた2組目のカップルは、実は男の方が別に女を作り、隣にいる彼女と別れたがっているらしい。それが本当かどうかは分からないが、少なくとも彼女はそう思いこんでいる。
 
 老女の出現により、ごく平凡な日常が、気が付いたら不安定に傾き、実は平凡な日常などどこにもないのにハッと気付かされる。
 そんな状況で新たに現れた背の高い青年・・・。

 事件が起こる、起こらないは問題ではない。
 ひょんなことから、それも何の根拠もないただの夢の話から世界はあっさりと崩壊する。
 何を信じていいのか分からない。
 何にすがっていいのか分からない。

 遊覧船の出航後、青年と少女は再び待合室に戻る。
 結局誰が船に乗ったのか、それとも誰も乗らなかったのか、答えは明確には提示されない。
 それならば今青年の前にいる少女が本当にそこにいるのかの確証はない。
 もしかしたら青年にとって、そういう未来もあるということだけなのかもしれない。
 殺人事件は、実は起きていた?
 不意の死を理解出来ない少女は自分が死んだことを知らず、これまでとなんら変わらず、そこに現れたとしたら・・・。

 どうやらこの芝居は人の=意識の境界線=の物語のようだ。

タグ:ポかリン
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『太陽と下着の見える町』(庭劇団ペニノ) [演劇]

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 劇団を率いるタニノクロク氏は現役の精神科医だとか。
 だからなのだろうか、不穏な精神の活発な運動(=妄想)を舞台上に、目に見える形で表出させる。
 過去作品を観ていないので断定は出来ないが、この『太陽と下着の見える町』は確かにアホっぽさ満載の妄想大図鑑となっている。

 ここで繰り広げられる妄想とは、パンツについての妄想。
 作品説明にも「究極のパンチラを求めるスペクタクル」(笑)とうたっているように、果たして舞台上でパンチラは見られるのか? それとも見えそうで見えない(それもまたパンチラの本質ではある)のか?
 とってもとっても気になって、こりゃあ劇場に足を運ばにゃあなりませんな! と、一人で納得するのだった。

 作者の妄想が実体化された舞台ゆえ、明確なストーリーはない。
 ないのだが、精神病院と一般家庭が同居する超巨大ビルを設計した男が、そこの病室で自殺していたエピソードを、多種多様な冒頭のイメージの嵐の中の一断片として提示した後、病室で何やら一人でブツブツ喋っているところから開始される。
 同時に他の病室にいる、自分を本の主人公だと思い込んでいる女、噺家を目指す口数の減らない女、旅行と食べることが好きなマゾのデブ男、受験勉強に励む男、無邪気に車遊びをする少女の話が、細切れでポン、ポン、と、提示される。
 また、上の階では、パンティの歴史について熱く語る下着マニアの青年がいたりする。その前をミニスカートで横切る彼女のスカートが風でそよぎ、、、、で、パンツが見えたりしちゃう!!!
 これは喜んでいいのか、それとも難しい顔をしたまま、パンチラに隔された暗喩を読み解くが如くの、思慮に富んだようなポーズを保つべきなのか、一瞬躊躇(ちゅうちょ)するも、ああ、やっぱりパンチラはいいなあ~、と、素直に喜んでしまう自分がいることだけは隠せない。

 パンチラ、バンザーイ!!!

 精神病院と一般家庭が同じビルの中に隣合わせで存在する意味、
 少女に訪れる死神の意味、
 病院の患者全員に配られる赤い本とそのヒロインとの関係、
 ビルの設計者はなぜハイな気分になって幸せそうに死んだのかとか、
 登場人物一人一人をよく眺めれば、それだけでそれ相応の解釈が出来る奥深い舞台なのだが、ここではそれは省略(すいません・・・)。
 パンチラという色物を出汁にして、人間の持つ様々な心のあり様を、それもまったくキワモノに落ちずに描いたこの作品は、観れば観るほど面白さ満載の作品となった。
 もちろん、色とりどりのパンチラもそれに一役買っていることは、改めて付け加える必要もあるまい。

 
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『あの人の世界』(サンプル) [演劇]

                    CIMG4611_256.jpg
                     『あのひとの世界/サンプル』


 面白かった、面白かった、何だか変だけど面白かった。
 ・・・というのが、松井周の芝居を観終わった後のいつもの感想。
 
 何がどう変なのかを一言で説明するのは容易ではないのだけれど、ストレートに話が進んで行かないもどかしさと、思わぬ方向へとそれて行く話の方向性とでも言ったらいいのか。
 なので『あの人の世界』もご多分に漏れず、おかしなことになっているのだった。それもこれまで以上に(笑)
 急勾配、急カーブ、一時停止、行き止まり、はては掟破りの<一方通行逆走!>まで。
 予想通り松井周ワールド全開の、多分、これまでの集大成的な【悪夢の迷宮】なのだった。

 物語は死んでしまった愛犬を巡っての、ある一組の不倫男女の、「こちら側の世界」と「あちら側の世界」との地獄巡りなのだが、そこに死ぬに至った愛犬のさ迷いこんだ、これまた不思議な世界での、人間と犬たちの革命を起こさせるミュージカル(犬版キャッツ?)やら、不倫男の妻と母親との、愛憎あい乱れる人探しの話、はたまた記憶を失った青年の自分探しのような運命の女性探しまで、時間も空間も登場人物までもごちゃまぜにした "闇鍋" のような混沌(カオス)が、ポン! とばかりに無造作に観客の前に放り出される。

 なので観客は目の前で進行中の物語を追いかけながら、同時に必死で物語の関係と流れを整理しようと脳内鬼ごっこを強いられるはめになる。
 それでも明快な回答を得られず、そんな自分に苛立っていると、いつの間にやら松井周の張り巡らした<迷宮>に足を取られて今にも転倒しそうになっている自分に気が付き、冷や汗が一筋背中をタラリ・・・。
 しまった!
 と、後悔する間もなく、しかし、<迷宮>巡りの快楽に、いつしか我を忘れ、もっともっとと谷崎潤一郎か団鬼六ばりのマゾヒストに大変身!

 すべてが出揃うエンディングと、エンドロールのその後に訪れるエピソードは、まるで抜け出せない地獄巡りの繰り返しのようで、後味はすこぶる悪い。
 
 
タグ:サンプル
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『教会のみえる川辺で』(海市-工房) [演劇]

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                 『教会のみえる川辺で/海市-工房』(2009)


 前作の『愛しい髪 やさしい右手』を観て思った。
 海市-工房は、演劇界最後の良心であると。
 確かな根拠があるわけではない。
 それでも、絶望の向こうには、必ず希望があると、そう信じさせてくれる、信じてみようかなと思わせる、何かがあるのだ。
 それは戯曲を手掛ける、しゅう史奈女史の作風に負うところが大きいが、その本の魅力を最大限に引き出そうとする小松幸作氏の演出方法、しいては人柄も、大いに影響しているはずだ。

 STORY:こじんまりとした古びたホテル。リバーサイドホテルという名の通り、川沿いに建つそこは、どこかのんびりした空気が漂う。
 今は亡き親から相続した次女のゆう子は、3年前、雨の夜に尋ねて来た博之と一緒に、このホテルを切り盛りしている。
 ある日、ゆう子の幼馴染の達也が写したホテルの写真が、雑誌に入選する。
 しかし、それを機会に、謎の無言電話が鳴り、達也を訪ねて来る女性が・・・。

 一枚の写真がキッカケとなって、平穏無事な日常に覗く小さな亀裂。やがてそれは次第に深い裂け目となり、さらに大きな波となって、周囲の人間を巻き込み、修復不能な現実を露呈し始める。

 雑誌の編集部を舞台にした前作とは打って変り、今回は川辺に建つ小さなホテルが舞台となり、その分、どこかのんびりした雰囲気を漂わせているものの、次第にそれは緊張感を帯びてゆき、ゆう子にとっては、語られるべきではなかった、知られるべきではなかった真実が露呈した時、自分がこれまで見ていた現実はもろくも崩れ去り、その代わりとして、錆びついた鉄の、血にも似た嫌な臭いと、ひんやりとした手触りが残る。

 時間は過去へと逆回転しながら、小さなほころびを押し広げずにはおれない。
 一枚の写真が呼び戻した博之にとっての「過去」の遺物は、しかし、再び蘇り、現在を侵食し始めにかかる。断ち切ったはずなのに、断ち切れていなかった "関係" が、今を壊そうと触手を伸ばすのだ。

 それでも逃れられるはずだった。なのに・・・。
 過去の一人の女性の "純粋過ぎる思い" を知った時、博之は破滅する。
 破滅の瞬間に脳裏を横切ったのは、その女性との出会いの場面であった。まだお互いが学生の頃、初めて二人で話した時の胸の鼓動、赤らむ頬・・・。
 
 博之の過去を知り、彼を失ってしまってもなお、彼の中にも幸福な一瞬が訪れたことを願って止まないゆう子の心情は、やはり尊く美しい。
 <神>が存在するのかは知らないが、もし存在するとしたら、キリストという名の偶像の中などではなく、この時のゆう子の心の中にだろう。
 もし、そうならば、<神>というヤツをちょっとは信じてやってもいい、そう思えて来る。
 
タグ:海市-工房
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『ろじ式』(維新派) [演劇]

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 外は雨。
 台風は進路を変え、日本列島をかするようにして進んでいた。風はそれほど強くはないものの、時折激しい雨が吹き付ける。
 雨で湿った足場を気にしつつ、山小屋風の建物の中に入る。建物の中央を通路にし、その左右に立ち飲み屋のような店が設けられていた。
「豚汁、あるよ~。食べてかない?」
 唐突に声をかけられ、足を止める。
「ついでにお酒はどう?」
 矢継ぎ早に放たれる誘惑の単語。”豚汁””お酒”、そう来られたら、素通り出来るほど、こちらも青くない。
「じゃあ、もらおうかな・・・」
 当然、こうなる。
 酒を手に豚汁をパクつきながら、芝居の始まりをしばし待つ。

                              ★

 古ぼけた体育館で繰り広げられるのは、タイトルからも連想されるような、すでに大人となってしまった者にとっての、子どもの頃の記憶の呼び覚まし。そこには "懐かしさ" と "冒険" に満ち溢れたもう一つの扉が広がっている。
 世界が細部まで張り巡らされた "秩序" によって成立するその前、そう、世界は混沌とともにあった。まるでパンゲアのように。

 物語は、、、ない。
 それどころか、ほとんど台詞もない。
 それからすると純然たる芝居というよりも、不思議なダンスを眺めていると言えば分かり易いかもしれない。
 『ろじ』という言葉から浮かび上がったイメージの集積が、この『ろじ式』なのだ。
 白塗りされた少年、少女たちは、個々の個性を剥奪された替わりに、"子どもたち" というより大きな役割を与えられ、走り、笑い、飛び跳ねる。

 今日、明日、明後日と、時間はもの凄いスピードで流れてゆくものの、そんなことを気に掛けたことすらない。
 なぜなら子どもたちにとって、時間は永遠だから。
 永遠の少年、
 永遠の少女、
 永遠の子どもたち・・・。
 しかし、いつしかその永遠も終わりがやって来て、舞台上のボクたちは、気がついたら観客側にいた。
 いつから逆転したのだろう?
 子どもの時間は永遠だったはずなのに・・・。
 ならば今一度、ここで転換しよう。
 もう一度、あの頃の心躍(おど)る気持ちを、
 永遠を取り戻すために。

 そんなことを考えさせる芝居であった。

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『雨のにおい』(東京タンバリン) [演劇]

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 観終わって、どことなく箱庭円舞曲を想い出してしまった。
 そういえば会社が舞台でOLが・・・という設定も久しぶりで、それも含めて箱庭以来かも。

 とある設計事務所のとある部署。
 今日も社員は忙しくあちこちを飛び回っていた。
 クライアントとの打ち合わせ、巨大テーマパークへのコンペ参加、建設中のビル等々。
 課長を中心にまとまっているはずの部署の人間関係は、しかし、微妙に軋み始めていた。
 一方、同時に描かれるのは、鉄道会社の遺失物管理センターに新たに着任してきた男性と、何故か中国人に成り済ます女性とのやり取り。多種多様な落とし主相手に、怒りを通り越して苦笑させられることばかり。

 舞台は左右対称に洒落た三日月型のテーブルが配置され、それに合わせて客席もステージの両サイドに設けられている。

 2つの物語は平行して語られるのだが、最後の方になって一つに合体する。
 異なった時間軸を行き来して、それが重なった時、物語の全体像が明らかになり、いったい何が起きたのかが観客に提示される凝った仕組みとなっている。
 そういえば上演中何度か現在から過去へ、ちょうどフィルムの逆回しよろしく、登場人物があわただしく後ろ向きにバタバタと素早い動きで戻る仕草をする場面があり、コミカルな動きがポイントポイントでアクセントとなっている。
 
 設計会社の仲間たちは忙しいながらも和気藹々(わきあいあい)と仕事をこなしているように見える。だが、内情は誰かがいない時はその人間を揶揄(やゆ)して笑う有様だ。悪意はないのだが、みんなが自分のことばかり考えていて、身勝手なのだ。
 その中の一人が受け持った現場のガイジン労働者とトラブルになり、彼女と上手くいかなくなった腹いせに同僚の女子社員にセクハラをしたことから、かろうじてバランスが取れていた人間関係に亀裂が生じてしまう。やがてそれは課長をも巻き込んでの事件へと発展してしまう・・・。

 全編を通して観ると物語りは至ってシンプルなのだが、あちこちに工夫が凝らされていて、それがラストになって物語りに深い余韻をもたらすことに成功しているのはさすがだ。
 
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秋の埼玉地区高校演劇祭 [演劇]

 このブログでも紹介した「埼玉県高校演劇祭」。
 本当は川越・坂戸地区の予選会だったわけだが、思いの他楽しめたし、感慨深いものがあった。第一、ただだし。

 さて、前回は春、そhして今回は秋と、どうやら年2回開催されるらしい予選会。
 今回も老骨に鞭打ち、出掛けたのだった。
 ただし、今回は娘も強引に引っ張り出し、親子2人での鑑賞と相成った。
 果たして娘の反応はいかに?

 9月26日の午後、午前中の部は残念ながら間に合わず、とりあえず午後の部のみ観る。

 【夏芙蓉:川越西高校】
 出て来た女の子の特徴のある声を聞いて、あっ、前回も観たぞ! と、想い出した。確かあの時は携帯電話が行方不明になった話だったはず。
 今回は高校の卒業式を終えた仲良し4人組が、夜の教室にこっそり集まって、他愛のないお喋りを始める。千鶴がこっそりみんなに召集を掛けたのだった。
 千鶴は別れ別れになってしまう仲間との別れが辛くてそうしたのだが、話が進んで行くと同時に、実は隠された真実が浮かび上がって来る・・・。
 前半は動きが少なく、話もあまり進んで行かないので、少々退屈するものの、日常に入った亀裂が徐々に露になって行くにつれ、哀しい真実が明らかになり、物語がぐっと重みを増す。
 前回もそうだが、高校生らしさがストレートに出た素直な芝居が彼女たちの持ち味だ。最後には感動させられたし。

 【空気がなけりゃ息苦しい:川越工業高校】
 工業高校だけあって、野郎2人の演劇部なのだった(裏方でもう2人いるらしいが)。
 名簿順で隣同士になった二人。しかし、片方は元気一杯なのに対して、もう片方は病気がち。いつも休み時間には本を読んでいて、クラスのみんなと交わろうとしない。
 元気君はそんな彼のことを気遣うが、病気がちな彼はしだいに欠席も増え、しばらく姿を見なくなってしまう。
 そうこうしているうちに卒業式を向かえ、担任から病気がちの彼が亡くなったことを聞かされる・・・。
 とてもシンプルな話を、練習不足もあっただろう2人が、なんとかまとめ上げようと必死になっているのが感じられ、つい、ガンバレー! と、応援したくなった。
 2人で40分の物語を演じ切った経験は、きっとこれからの励みになるはずだ。

 娘も頑張る男の子2人を応援していたようで、それなりに感じるものがあったに違いない。
 連れて来たのも無駄ではなかったなら嬉しいが。

 翌日は一人で同じく午後の部を観る。

 【空の向こうに:山村学園高校】
 まず、出て来た子の大きくてはっきりた声がとても良く響き渡り、それだけで、うん、うん、と、感心してしまった。人前で大きな声って、なかなか出ないものだから。
 不幸な現実から逃げ出し、幸せが満ち溢れた世界を探しに出掛ける少女。それを諦め顔で眺めながらも、一緒について行き、彼女を守ろうとする少年。
 結局幸福は遥か彼方にではなく、ごく身近なところにあったというオチは平凡ではあるが、一つの真実を含んでいると思う。

 【ジギタリスと田中くん:筑波大坂戸高校】
 最初に感じたことは、場馴れしているということ。それは台本しかり、演出方法しかり、かなり若手劇団の芝居を観ているなと思えた。
 ギリシャ神話を題材に、舞台を現代に持って来て、良い子星人(だっけ?)の青年が地球にやって来て、ノー天気な、しかし妹思いであり、心優しい田中君の姿に、何か大切なものを見るというような内容だが、素早い場面展開や、絶えず動きのある舞台上など、計算された動きは流石だ。
 今回観た高校の中では飛び抜けた完成度だと思う。
 そうは思うのだが、ここまで出来るのなら、わざわざ田中君という子どもを主人公に持って来て、教養っぽい物語を展開することがベストだったのだろうか?
 高校生というしがらみは当然あるだろう、それでもそんな殻を突き破る、どこか破天荒な歪みが見え隠れしても良いのではないだろうか? 一言で言うなら優しすぎるのだ。
 世間擦れした中年の目で眺めると、かなり子どもっぽい設定であり、後半、一瞬だけ冷徹な視点(銃を取る仕草の箇所)もあるにはあったが、今時の高校生はずいぶんといい子なんだなあ・・・と、ちょっと拍子抜けしてしまう。たまたま今回がそうだっただけなのかもしれないが、時代を撃つ社会性を、そして時には心に銃弾を隠し持ったっていいじゃないか!
 上手いだけに、もったいない!!!

 こんな感じで2日間を過ごし、文句や疑問点もあったが、それでもやっぱり若いっていいなあと、改めて思ったのだった。


 追記:この大会がいつ、どこで開催されるのか、もっとしっかりインフォメーションしてはくれないものか?
 せっかくの熱演も知らされてなければ観ようがないではないか!
 会場となった尚美大学のホームページにさえ載っていなかったし・・・。


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 大会のポスター。みんな一生懸命、がんばってました。ちなみに右下に写っているシルエットはボクです。
 

タグ:高校演劇祭
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『ハッピーエンドクラッシャー』(ゴジゲン) [演劇]

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                       『ハッピーエンドクラッシャー』(ゴジゲン)


 ここ最近のお気に入りのゴジゲン。
 前作の『チェリーボイ・ゴッドガール』での、情けなさ200%の青春残酷物語(大島渚!)が、こちらの過去の琴線に触れなくていいのに触れてしまい、それ以来、無視出来ない存在になった。

 ゴジゲンを率いる作・演出の松井大吾氏は、世間に跋扈(ばっこ)する "嘘臭い感動" や "わざとらしい美談" の大嫌いな人で、その点もワタクシと良く似ていて、つい、そうだよなー、とか、相槌をうってしまう。
 この『ハッピーエンドクラッシャー』でも、基本的にその姿勢に違いはなし。ただし、前作がかなりの直球だったのに対し、こちらはシンカーなのか、手元でちょっと変化する。

                              ★

 舞台は九州のとある田舎町。
 昔ながらの縁側のある古びた家の中庭に、久しぶりに高校時代の仲間が集まった。2人は東京の大学に通っていての里帰り。後の3人は浪人中。
 彼らが集まったのは、高校時代からずっと出場し続けている、地元で開催される漫才大会に出場するためであり、集まった中庭のある家は、自殺してしまった彼らの同級生である阿部の実家だった。
 阿部は仲間内で一番頭が良く、仲間に暗号で試験の解答を教えようとしたところを見つかり、受験資格を剥奪されてしまい、その後、すぐに自殺してしまったのだった。
 彼の兄は死んだ弟のために線香の一本でも上げてくれればいいと、優しく彼らに接する。
 一方、阿部のおかげで見事東京の大学に受かった2人は、東京慣れした言動と態度で、やたら明るくはしゃぎ、地元に残された浪人組はそんな態度に、内心面白かろうはずもなく・・・。

                              ★

 タイトルから察するに、現代の若者の軽いノリと無意味な明るさを、出演者達が揶揄(やゆ)するパターンかなと勝手に想像していたのだが、意外にも地方のどこにでもある田舎臭い町が舞台だったので意表を突かれた。主軸となるのが友だちの自殺という設定も、どこにでもあるありふれた青春物のそれであるし。
 ところがそこはやはりゴジゲンであって、青春回顧調の、哀しいことを乗り越えて、それでもボクらは前に進んで行く的な展開にはやはりならない。それをやったらゴジゲンじゃあなくなるのだ。

 東京から戻って来た2人の宴会的な異様なテンションは、明るくなければ人間じゃあないという今の風潮がデフォルメされていて、はしゃげばはしゃぐほど、無理している風が見えてきて痛い。それはあたかも日常生活でさえ、漫才を演じなければならないかのようだ。そうしないと "イケている人" から脱落してしまうとでもいうように。
 それを憎々しげに感じている地元3人組もまた、内心とは裏腹に冗談を言い合って仲良しを演じる。彼らもまたネガティブな要素を少しでもさらけ出した瞬間、何かから捨てられるのを極端に恐れているようだ。
 
 そんな彼らではあるが、過剰な明るさの裏で、やはり阿部を自殺に追い込んだ責任を感じて、いや、それだからこその明るさでもあった。
 徐々に暴き出されてゆくそれぞれの<事実>は、痛々しく悲惨でもある。そして最後の「スイカ割り」で爆発する<現実>・・・。

 1時間50分、長丁場を観終わってみれば、そこはやっぱりゴジゲンでしか描けない、まさに独断場だった。
 しばらくはこの劇団から目が離せない。


 追記:ゴジゲンのブログによると、ボクが観に行った9月14日(月)は、過去最高の入場者だったそうです。確かに通路に人を座らせたりで、係りの方は大忙しでした。

タグ:ゴジゲン
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