『クラッシュ』(J・G・バラード) [書評]
「古典を読み直そう!」
に続いてというか、並行してというか、まあ、突然想い出したかのように、
「苦手なSFを読もう!」
というキャンペーンも勝手に張っていたりするんですね、実は。
面白ければジャンルは関係なしをモットーにしているのに、すいません、SFは例外でして・・・とは、やっぱり言いずらいじゃあないですか。でも、実はクラシックのオペラは、未だに苦手なままですが(笑)
『クラッシュ/J・G・バラード』(創元SF文庫)
今回、なぜSF界の鬼才、バラードの『クラッシュ』を読んでみようかと考えたかというと、ずいぶん昔にクローネンバーグ監督の同盟映画を観たことがあったから。それがなにやら可笑しいというか変な映画で、観終わった後に、胸の奥にいや~なしこりが残る類の作品だったのだ。そのことを未だに憶えていて、さて、原作はどうなってるんだろう? と、興味本位で知りたくなったからだった。
STORY:バラードは車の事故を起こし、衝突した相手方の運転手を死亡させてしまった。まるでその事件がきっかけのように、ヴォーンという名の謎の男の姿を身の回りで目撃するようになる。実はヴォーンは自動車事故とセックスの濃密な関係に異様な興味を抱き、自らも憧れのエリザベス・テイラーの運転する車に突っ込み、事故死を遂げるというおぞましい願望の持ち主だった。
バラードと妻のキャサリンは、次第にヴォーンの悪夢的世界に侵されてゆくのだった・・・。
話の概要を読んだだけでも、なにやらアブナそうな話である。
<神>と<子>と<精霊>=三位一体
これはキリスト教の基本原理だが、
<機械>と<セックス>と<死>=バラード的三位一体
という具合にここでは書き換えられている。
ニーチェを待つまでもなく、<神>など最初からいない。
<神>と<子>と<精霊>にしたって、キリストの死後、教会が布教を進めるにあたり、都合よくでっち上げたとも言える。
<神>なき現代に<神>に取って替わるなにか。
それが<死>なのかもしれない。
<生>の対極にあり、必ず訪れる絶対的現実である<死>以外に、もはや我々は信じられるものを持たない。ゆえに<死>こそ唯一絶対の<神>であったとしても、なんら不思議ではない。
ヴォーンがなにゆえエリザベス・テーラーとの心中を夢想するのかは定かではないが、それこそが彼にとって想い描けるただひとつの到達点のようで、それに向けて幾度もシュミレーションを重ねるのだ。
そのため警察無線を傍受して事故現場に駆けつけ、どのような状況のもと、どんな風にして起こり、その結果、運転手の身体にどのように事故の傷跡を刻み付けたのかを想像し、自らの華々しい<死>に向けての実演の肥やしとなる。
あいまいな感情などではなく、超現実としての "傷" や "痛み" のみが持ちうる完全なるリアリティこそ、我々が最後に持ち得る<自由>だとしたら・・・。
全編に渡って繰り広げられる<死の狂想曲>の中にしか<愛>を感じえない者たちの破滅の物語は、生きることに違和感を憶えたことのない人々にとっては単なるエログロSFでしかないだろう。
しかし、一方でごく一握りの者にとっては、まったく異なった様相を呈するに違いない。
PS.主人公の名を自らのそれと同じにしたバラードは、この作品には自伝的要素がかなり含まれていると告白している。訳者あとがき参照。
に続いてというか、並行してというか、まあ、突然想い出したかのように、
「苦手なSFを読もう!」
というキャンペーンも勝手に張っていたりするんですね、実は。
面白ければジャンルは関係なしをモットーにしているのに、すいません、SFは例外でして・・・とは、やっぱり言いずらいじゃあないですか。でも、実はクラシックのオペラは、未だに苦手なままですが(笑)
『クラッシュ/J・G・バラード』(創元SF文庫)
今回、なぜSF界の鬼才、バラードの『クラッシュ』を読んでみようかと考えたかというと、ずいぶん昔にクローネンバーグ監督の同盟映画を観たことがあったから。それがなにやら可笑しいというか変な映画で、観終わった後に、胸の奥にいや~なしこりが残る類の作品だったのだ。そのことを未だに憶えていて、さて、原作はどうなってるんだろう? と、興味本位で知りたくなったからだった。
STORY:バラードは車の事故を起こし、衝突した相手方の運転手を死亡させてしまった。まるでその事件がきっかけのように、ヴォーンという名の謎の男の姿を身の回りで目撃するようになる。実はヴォーンは自動車事故とセックスの濃密な関係に異様な興味を抱き、自らも憧れのエリザベス・テイラーの運転する車に突っ込み、事故死を遂げるというおぞましい願望の持ち主だった。
バラードと妻のキャサリンは、次第にヴォーンの悪夢的世界に侵されてゆくのだった・・・。
話の概要を読んだだけでも、なにやらアブナそうな話である。
<神>と<子>と<精霊>=三位一体
これはキリスト教の基本原理だが、
<機械>と<セックス>と<死>=バラード的三位一体
という具合にここでは書き換えられている。
ニーチェを待つまでもなく、<神>など最初からいない。
<神>と<子>と<精霊>にしたって、キリストの死後、教会が布教を進めるにあたり、都合よくでっち上げたとも言える。
<神>なき現代に<神>に取って替わるなにか。
それが<死>なのかもしれない。
<生>の対極にあり、必ず訪れる絶対的現実である<死>以外に、もはや我々は信じられるものを持たない。ゆえに<死>こそ唯一絶対の<神>であったとしても、なんら不思議ではない。
ヴォーンがなにゆえエリザベス・テーラーとの心中を夢想するのかは定かではないが、それこそが彼にとって想い描けるただひとつの到達点のようで、それに向けて幾度もシュミレーションを重ねるのだ。
そのため警察無線を傍受して事故現場に駆けつけ、どのような状況のもと、どんな風にして起こり、その結果、運転手の身体にどのように事故の傷跡を刻み付けたのかを想像し、自らの華々しい<死>に向けての実演の肥やしとなる。
あいまいな感情などではなく、超現実としての "傷" や "痛み" のみが持ちうる完全なるリアリティこそ、我々が最後に持ち得る<自由>だとしたら・・・。
全編に渡って繰り広げられる<死の狂想曲>の中にしか<愛>を感じえない者たちの破滅の物語は、生きることに違和感を憶えたことのない人々にとっては単なるエログロSFでしかないだろう。
しかし、一方でごく一握りの者にとっては、まったく異なった様相を呈するに違いない。
PS.主人公の名を自らのそれと同じにしたバラードは、この作品には自伝的要素がかなり含まれていると告白している。訳者あとがき参照。
タグ:SF
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