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『屍者の帝国』 [書評]

 この文章は一人の女性のみが読むことを想定して書かれたものであり、
 伝達の便宜上、ここに記載する。


 【登場人物について】
 この物語の中の登場人物及び物語の中で語られる人物は、実在した人物であったり、有名な小説の中の人物であったりと、実在と架空が同一線上に存在している。
 例を挙げると、プロローグに登場するヴァン・ヘルシング教授は、ブラム・ストーカー著『吸血鬼ドラキュラ』に登場する架空の人物であるにも関わらず、大学の講義に招かれ、小説上で与えられた精神医学を専門としつつ、バンパイアに詳しいという設定はそのまま引き継いだ形でここに登場する。
 また、フローレンス・ナイチンゲールは実在の人物であり、統計学に秀でている事実をもとに、ここでは国際赤十字団統計処理部門の長の椅子を占めた統計学者と紹介され、ほぼ現実との一致が見られる一方で、俗称、フランケンシュタイン三原則を提唱したとされるが、これは架空の話で、三原則のオリジナルは、アイザック・アシモフ著『わたしはロボット』で紹介されているロボット三原則だと思われる。
 このような一例を出すまでもなく、『屍者の帝国』の登場人物たちの多くは、オリジナルからの引用&部分的改ざんから成っている。

 【物語の構造について】
 先に挙げたように、虚実混ぜ合わさった人物が、本来、存在すべき時代を無視して登場すると、まず読者は混乱をきたす。これを回避するには、十分な知識を備えているか、もしくはまったく知識を持たないかのどちらかである。
 時間軸を縦方向に延びる直線と仮定するならば、『屍者の帝国』は、それを、まるで上から押しつぶして、横方向に平べったくしたものともでも言えば良いか? すると本来異なった時間軸に存在するはずの者が、横方向、すなわち、同じ時代に存在することになる。こうして物語は、多種多様な登場人物が、一緒に登場することとなった。

 【第一部】
  屍者の暴走事件が相次ぐ中、それを陰で操っていると思わしきザ・ワンの存在が浮かび上がる。ザ・ワンとは、フランケンシュタイン博士によって生み出された人造人間の名称。<最初の屍者>という意味でそう呼ばれているようだ。
 一方、屍者の王国を建設しようとする人物として登場する(後に違うことが判明する)アリョーシャは、ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』の三男である。彼以外にこの大長編からは、長男ドミトリィ、ゾシマ宗長、アリョーシャを崇拝するまだ若いクラソートキンが登場し、『カラマーゾフの兄弟』を経て、未完に終わった続編をなぞる。書かれなかったそれは、聖職者であるアリョーシャがゾシマ宗長の死によって宗教に疑問を持ち、聖職者の衣を脱ぎ棄て、民衆の立場からロシア皇帝を暗殺すべく行動を起こすというもの。そして彼を崇拝するクラソートキン少年がその右腕的な役割を担う。『カラマーゾフの兄弟』での関係はそのまま引用されているが、目的は皇帝暗殺を視野に入れながらも、その手段の一環としての屍者の王国の建設に趣が置かれている。現在の社会システムを覆すという革命的目的意識は当然そのまま受け継がれていることは言うまでもない。
 しかし、アリョーシャは、屍人の王国を完成させる前に自ら屍者となる。生きたまま屍者化する技術をワトソンたちに知らしめるために。
 ここでは、「屍者=死んだ者を生き返らせた存在」だという定義が崩され、生者に対し<死>を媒介させないで屍者とすることが出来るのが示される。いわゆる生きながら屍者となるのである。アリョーシャの兄、ドミトリーがそれだったし、アレクセイが実践して見せた。
 ちなみにドミトリーが願ったのが、死者の完全復活。それは多分に聖書の中の<最後の審判>において、すべての死者が蘇るとされる光景を彷彿とさせる。、
 また、アリョーシャが潜んでいる帝国にワトソン一向が向かう場面は、まるで『地獄の黙示録』だ。そうなるとさながらアリョーシャはカンボジアの密林奥深くに自らの王国を築き君臨するカーク大佐(マーロン・ブランド!)となり、ここでも別の物語と設定の引用が大胆に行われている。

 【第二部】
 第一部が『カラマーゾフの兄弟』の多大なる影響下にあるのに対し、第二部は舞台を東京に移し、新たな展開を見せる。しかし、第一部に比べると、屍者の軍隊とも呼ぶ戦闘集団と化した彼らとの戦闘シーンが2度もあるものの、それ自体よりは、いささかややこしいワトソンとピンカートン社の謎の美女ハダリーの禅問答のようなやり取りが前半の肝となる。これまた『カラマーゾフの兄弟』に置き換えるとすると、ゾシマ宗長とアリョーシャが交わしたやり取りと言えなくもない。
 大里大学(屍者技術を開発していた施設を母体とする)で遭遇した、生者の能力を超えた屍者は、フランケンシュタイン三原則を逸脱した新たな脅威となった。また、彼らを操るフランケンシュタイン博士によって作られた最初の屍者 “ザ・ワン” からのメッセージにより、初めて彼が確固たる存在としてワトソンたちの前に立ちはだかることとなった。と、同時に、屍者の秘密が書かれていると言われている「ヴィクターの手記」とそのコピーであるパンチカードの存在が明白となる。
 屍者との戦闘の後、コレラにかかって病床に伏したワトソンとハダリーとの会話は、奇妙なこの物語の<核>の一端に触れる重要な部分だ。すなわち、死者と生きている者を区別する要因は<魂>の存在の有無にあるということ。<魂>を巡るワトソンとハダリーの会話の噛み合わなさ加減が笑える。また、ハダリーが異常に高度の計算能力を有する<異能者>であることもここで判明する。
 第二章の後半は、浜離宮での戦闘と、<異能者>としてのハダリーが、ザ・ワンと同じく、屍者を暴走させる力があることが示される。<魂>を感じ取ることが出来ないこの美女は、ザ・ワンによってリリスと呼ばれて、特別な位置づけを与えられる。「リリス=神によってアダムと同時に作られた最初の女性」として。このことは第三章に引き継がれ、大きな意味を持つこととなる。余談だが、『新世紀エヴァンゲリヲン』にも同等のモチーフを用いた設定あり。そちらではリリスはシンジ君の母親だった。
 <異能者>としてのハダリーをより強く印象付けるエピソードとして、バトラーとの関係が語られるのも興味深い。

 【第三部】
 いよいよザ・ワンのいる教会に乗り込むワトソンたち。そこで待ち構えていたザ・ワンとハダリーの屍者を巡る主導権争い(どちらが操るか)が繰り広げられる中、チャールズ・ダーウィンが登場。ザ・ワンを捕え、一行は巨大戦艦ノーチラス号に乗り込む。そこで語られるザ・ワンのモノローグは、第二部でのワトソンとハダリーの会話の続編であるかのような内容となっている。自らの生い立ちと、<魂>について。
 <魂>は人間だけに備わっている特殊なものであり、人間以外の動物が魂を持たないのは、魂の言葉を理解出来ないからに他ならない。だから動物は屍者にはなれない。では、その<魂>とはなんなのか? ザ・ワンは数々の実験の結果、<菌株>こそそれだという思いに至る。人はこの<菌株>に操られているに過ぎないと。そして死者だけでなく、生きている者をも屍者化する<菌株>を<不死化した菌株>と定義するならば、それらはやがてすべての人々を覆い尽くし、最後には人類を滅亡へ導くに違いない。今はまだそこまで至っていないが、数十年後、気がついた時には現実になっているはずだ。
 ザ・ワンは生者の屍者化を推進する解析機関によってそれがもたらされるのを良しとしない。そこでワトソン一向とともに、ロンドン塔にあるセント・ジョン礼拝堂へ向かうこととなる。しかし、そこにはザ・ワンの好敵手とでも呼ぶべきヴァン・ヘルシングが待ち構えていた。彼は屍者の存在を認める側に立ち、ザ・ワンと敵対するが、ドミトリーのようにすべての死者の復活を望んでいるわけではない。あくまで自分たちがコントロール可能であり、屍者化の主導権を握れる立場を維持することが重要であった。一方、ザ・ワンにとっては、実は屍者や死者、さらにはかつて生あったすべての命が復活する秘儀を行うことにより、かつて作られた自分の花嫁=イヴの復活のみが目的だった。結局、イヴは復活し、ザ・ワンとともにその場から姿を消す。すべての命の復活は、<魂=菌株=言葉>の結晶石の力で制止される。
 かなり込み入った話なので、素直に理解しがたい箇所多し。誰がどういう立場で、何を目的として、どう行動したのか? 読みながらメモでも取らないと辛いかも。

 【エピローグ】
 ワトソンがフライデーの身体の中に隠していた結晶石を取り出し、自らの体内に埋め込む。それによって敵対する2つの組織から狙われる存在となり、皮肉にもそのことが彼自身を生き永らえさせる唯一の方法となるのだった。ワトソンは天才によって生み出されたもう一人のザ・ワンとでも呼ぶべきハダリー(=リリス アダムとともに最初に神によって作り出された女性)の特殊な力を借り、それを成し遂げる。
 エピローグの最後は、記録する屍者として、ワトソンのそばにいながら、今度の事件をずっと書き記してきたフライデーのモノローグで幕を閉じる。それは、記録者としての任務を解任され、初めて自我を持ったかのような記述だ。
 生きながら屍者となったワトソンは、多分、自分が屍者であることも理解出来ず、普通の生活を送っている。それを眺めるフライデーの眼差しはどこか寂しそう。それでも彼が ”生きて” くれているだけで喜びが滲み出てくる(まるでフライデーが人間になったかのような錯覚を持つ。もしかしたら屍者であっても、生きていた時と同じような感情を失っていないのかも知れないが)。
 彼は探偵とつるんでいるワトソンをいつか自分の手元に取り戻したいと願う。その探偵とは、当然、シャーロック・ホームズその人であり、となると、フライデーはモリアティ教授ということになる。それを裏付けるように、この物語は1881年で終わるが、ワトソンがシャーロック・ホームズと出会うのもまた1881年なのである。なので、この物語の続きはそちらの本を参照に・・・なのかな?

 結局、この物語は<魂>を巡る物語であり、それはすなわち<言葉>を巡る物語と言える。聖書の最初の一説にはこうある。

 初めに言葉ありき
 言葉は神とともにありき
 神は言葉であった 


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コメント 2

nf

素晴らしい!!!!なるほど~と思うところと全く理解できていなかった部分がはっきりしました。超難解な数学の問題に光が見えてきたような感じです。


この解説を見ながら、もう一度挑戦してみようかな…

確かに中途半端な知識は混乱をきたしますね。そればかりに囚われて、他が全然頭に入ってきませんでした。

今、考えてみるとこういった著者からの挑戦状のような本も面白いのかもしれませんね。分からないやつはついてこなくてよし!という冷たい感じがしていましたが、そういったことではないのかもしれないと思い始めました。

というか、「カラマーゾフ」とか余計に読みたくなりました。この本のほうが後なのに、読みながら「もしかしたらこの人は!?」なんてうがった見方で読むのも楽しいかも。

すばらしい解説ありがとうございました。新たな興味がわきました!!!


by nf (2013-01-12 23:05) 

TAO

読みずらさの原因はもう一つあって、状況や場所の説明がそれほど具体的に書かれてないので、あれ、ここはどこだっけ? といった感じになってしまう現象がたびたび起こります。
これが意図的なものなのか、それとも作者の個性なのかは、他の作品を未読なのでわかりませんが。

「カラマーゾフの兄弟」は出来れば読んでおいた方が良いです。圧倒的な物語性と密度の濃さは並大抵ではありません。解説の充実度からしたら光文社文庫版がお勧め。新約でもあるし(一部で解釈の間違いを指摘されていますが、それはそれとして)。

最近、物語力が不足している気がします。日常の出来事も悪くはないですが、人智を超えた物語はやはり読む人を圧倒します。

さて、次は何を読もうかな?


by TAO (2013-01-13 12:17) 

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