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『GLOBAL NEW ART』(タグチ・アートコレクション) [アート]

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              『GLOBAL NEW ART この世界を生きるアート』


 アートづいてます。
 たぶん、しばらく遠ざかっていた反動であると。
 今年は娘の受験のため、忍の一年だと、自分に言い聞かせている。多くは月6万円もかかる塾代のおかげなのだが。

 そんな逆境(?)の中、時には遊びもね、、、。
 アートは遊びなのである。好奇心と知性を刺激する遊び。
 教養主義反対! 快楽主義賛成!
 ジローラモだけがちょい悪オヤジじゃないんだよ(笑)

 印象派だけが美術じゃない、、、。当たり前のこと。
 さんざん語り尽くされ、評価も定まったものばかり見ても、アート心は成長しない。なにもこれはアートに限らず、すべてに対して言えること。

 <わからないから興味がある、分からないからわかりたい>

 そんな想いは強い。
 でも、現代アートが難解というのは間違い。逆におバカだったり、マジかよ~とか、突っ込みを入れたくなる作品も多い。当たり前のことではあるが、<現代>と付くということは、今現在、我々を取り巻く環境とか、考え方とかを描いているということ。アートは時代性を無視出来ない。無視したら存在そのものの意義が失われてしまうから。
 だから、しかめっ面をしないで、マンガを読むように、メールをするように、構えないで気軽に観賞すればいいのだ。しょせん感性の産物なのだから。

 チラシにタグチ・アートコレクションと謳(うた)われているように、コレクターの田口弘氏の個人コレクションでもあるこの展覧会は、ポップ・アートの騎手であるアンディ・ウォーホールやリキテンシュタインから、村上隆、奈良美智まで、さまざまなアーティストが、独自の視点と技法を駆使して描く
  "自分ワールド" 満載の、まさに遊園地!
 自己主張のつるべ撃ちに、こちらも反撃。
 バカパワーなら負けないぜ!!!
 なんて考えながら、会場内を巡るのもまた楽し。


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『傷ついた街』(レオ・ルビンファイン) [アート]

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                    『傷ついた街/レオ・ルビンファイン』


 夏休み、まだ取ってません。
 娘が高校受験でもあり、家族旅行は今年はなし。例年はいつも山中湖か清里。涼を求めて。
 なので、適当に(?)仕事を半休したり、週末を当てたりして、SELF夏休み、、、って言い方は変だけど。

 9.11のアメリカ同時多発テロが人々にどのような影を落としたのか?

 写真家のレオ・ルビンファインは世界貿易センターのすぐ近くに引っ越してきたばかりだった。
 数日後、テロの惨事が彼を襲う。幸い、無時だったものの、その日以来、彼、いや、世界を取り巻く状況は一変する。
 レオ・ルビンファインはニューヨークのように、テロ事件を経験した国々の都市を巡り、街に生きる人々の顔を撮影する。
 今回の展覧会は同時多発テロから10年の節目、新たな作品も加え、再構成されたものである。

 モノクロとカラーが混在した、大きな(B全~ポスター2枚分~より大きい)写真の数々。展示は壁の置かれるのではなく、上から吊り下げられている。
 被写体となっているのは、人間。信号待ちをしていたり、雑踏の中にまぎれていたり。それぞれの写真には関連性は見られない。単なる街のポートレイトとの見方も出来る。しかし、写真を眺めていると、一見、何の関連性もないそれらの中に、ある共通点が浮かび上がる。

 視線の厳しさ、、、なのだ。

 被写体は直接カメラを見ているわけではない。それどころか、向けられた視線の先に何があるのか提示されないものの方が多い。別段ケンカをしているわけでも、言い争いをしているわけでもない。それでも目に込められた力が写真に強烈なオーラをまとらせているのだ。
 はっきり言って、その強さが同時多発テロと精神的に結びついているのかは分からないのだけれど、何か<異>なものが存在しているのだけは分かる。


 PS. 『傷ついた街/レオ・ルビンファイン展』は、東京国立近代美術館にて、10月23日まで開催中

 
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礒江毅=グスタボ・イソエ [アート]

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 美術館、、、行ってねえなあー!
 美術館、、、行きてーなあー!

 というわけで、内なる衝動には敏感に反応するワタクシとしては、だから出かけました、、、と。

 で、何を、誰を、観るの???
 そんな時には、ネットで美術館情報を検索。
 うん、これと、これと、これ。
 了解!!!

 そんな海苔、じゃなかった、糊、でもなく、ノリで、<ただ、自分の直感に正直であれ!>をモットーに行動するのだった。
 会場となる練馬区立美術館はけっして大きな美術館ではないのだが、どこか地方都市(いちおう練馬も東京都)的な素朴な味わいのある美術館である。今年で26年目。一般500円と入場料も安いのがまた良い。

 礒江の作品を目の前にしてまず驚かされるのが、驚異的な描写力である。リアリズムを重視したそれは写真と見まがうほど、細部の細部まで神経を行き渡らせた筆(または鉛筆)使いを見せる。現物を直視してもなを、どうやって描いたのか理解できないのだ。どうすればこれほどミクロな描写が可能なのか? 見れば見るほど首をかしげざるを得ない。
 しかし、だからといって写実一辺倒かといえばそうではない。写実を超えた写実を描くことで、その先にあるものを炙り出し、抽出し、提示する。そこにこそ礒江の真骨頂がある。一時、超写実絵画が流行ったことがあったが、上手い、どうやって描いているのだろう? と、感心したが、そこを突き抜ける "何か" は、残念ながら感じられなかった。

 静物画が多くを収めるが、そんな中に、大きなカンバスに描かれる女性の姿がいっそう印象に残る。構図には特に目新しいものはない。ただ、画家の目の前に存在する対象を100%捕え、カンバスに移し替える作業を行いながら、同時に、そのものの歩んできた時間とか歴史をもまた捕える。そうすることで<静>なる画は、<聖>なる画へと昇華してゆく。
 後年の彼の作品からは宗教的な雰囲気が濃厚に漂っていると見るが、いかがなものだろうか?

 有名な印象派の展覧会を否定するつもりはさらさらないが、それだけではないぞ、、、と、強く言いたいものだ。作品に有名、無名は関係ない。ただ、素晴らしい作品が存在するだけなのだから。
 
 『礒江毅=グスタボ・イソエ~マドリード・リアリズムの鬼才』展は10月2日まで開催中なので、ぜひ足を運んでみて下さい。新しい美術体験を体感出来ると思いますので。
 

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『パウル・クレー~おわらないアトリエ~』展 [アート]

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 兆候は、、、あった。
 何の兆候かって?
 お休みのですよ!!!
 ちょっと疲れてきたなあ・・・、ホッとしたいなあ・・・、とか、ほら、誰だって思うじゃないですか。
 でも、大きな仕事はないにもかかわらず、ちょこまかとこまい仕事が残ってたりして、休むに休めないって状況。覚えがあるでしょ?
 なので、全休じゃなくて、半休を、突如、取ってしまったのだった。

 13:00時に昼飯を食べに行って、そのまま半休に雪崩れ込む、知能犯???

 で、向かった先が東京国立美術館。
 ここでは『パウル・クレー~おわらないアトリエ~』展が開催中。過去、クレー展は観たことがあるけれど、随分昔のことだし、久々だから寄ってみるかいな、、、そんな感じ。

 昼間の美術館は空いていていい。とはいいながらも、年寄りとおばさん率高しの雰囲気はいつも通り。そこに大学生風の若者がちらほら交じる。となれば、ボクなど仕事をサボってやってきた謎の人かな?

 クレーは日本でも人気の高い画家で、過去、何度も展覧会が開催されている(国立近代美術館では初らしい)。そんな中にあって、今回の趣旨は、クレーの作品製造過程を紐解き、実際の作品がどのように作られたのかを検証しようというユニークな試みだ。

 展示はいくつかのコーナーに分けられていて、「油彩転写」と呼ばれる、クレーが独自に編みだした技法を紹介するコーナー、これは、素描をいったん転写し、それをもとに着色するという技法で、素描と着色されたものを比較して観ることが出来る。こうすると版画のようでいて、ちょっと違う、独特な味わいの作品になる。
 また、別のコーナーでは、完成した一枚の絵を分割して二枚の異なる作品にしたり、また、一部分のみ独立させたりと、普通では考えられないようなことをしているのが分かる仕組みになっている。

 確かにこれまでにないユニークな趣向を持った展示に、クレー作品を観るこちらも新たな視点を発見するような楽しみがあった。ふん、ふん、そんなになってんのかいな !? みたいな。
 ただ、それと引き換えに、サイズ的に小さいものが多く、大作を観た充実感にはいささか物足りなさを感じたのも事実。このあたりは難しいところだろう。これみよがしに大作、代表作を集めれば、これまで幾度となく開催された展覧会と大差なくなってしまう危険もはらんでいるのだから。

 ともあれ、有意義な時間を過ごせたことは間違いない。
 うん、これでいいのだ!!!


 『中村恩恵&加藤訓子~ダンスと音のコラボレーション~』へと続く・・・


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アール・ブリュット・ジャポネ展 [アート]

 GW、大人だって楽しんだっていいんじゃない?
 というわけで、子どもを置いて、勝手に(いちおう嫁さんには断わって)アートするワタクシ。そういえばしばらく美術館に足を運んでなかったっけ。

 京浜東北線北浦和駅から徒歩3~4分。
 北浦和公園中にある埼玉県立美術館へ赴く。ここは以前『ワイエス素描展』で訪れたことがある。街中なのに自然と美術館が共存していて、なかなか良い雰囲気なのだ。

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 ところで、アール・ブリュットって言葉、ご存じですか?
 知らない?
 実はつい最近までボクも知りませんでした。
 直訳すると「生の芸術」となるらしいのですが、<正式な美術教育を受けていない(精神的障害を抱えた)方たちが、自己の衝動をそのまま形にした美術>と意訳するのが一番現実に即しているかも。
 半年近く前に、NHKの新日曜美術館で、パリで開催された展覧会の様子が紹介されていたっけ。この展覧会は、その凱旋公開に当たる。

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 芸術作品に限らず、<物>を創造するという行為は、熟考に熟考を重ね、アイデアと技術を研ぎ澄ませた上に成り立つものであるのだが、展示されている彼らの作品は、それとはいささか異なり、"まず衝動ありき"。そして最後までその衝動が途切れることなく同じテンションで継続される。
 言い変えれば、技術の有無は必ずしも必要とされない。衝動こそすべて。
 職業としての美術家ではまず不可能なこの領域を、彼らは軽々と越えてゆく。他者の批判的な視点など、彼らの頭にははなから存在しない。ひょっとしたら、なぜ描くのかすらも意識していないのかもしれない。止むに止まれぬ衝動だけが一里塚の如く、ただ、そこにある。


 例を挙げると、

 ◆古い記憶を頼りに、懐かしい日本映画のポスターを再現する作品では、細部までしっかりと描き込まれていて、これが記憶を頼りに描かれたものだとはとうてい信じられない精度。
 ◆画用紙に青いボールペンで繰り返し書かれた「も」の字。幾度も幾度もそれが書かれたものだから、文字の形がいつしか模様に変化してしまったような画。
 ◆カラフルな線で描かれた猫は、まるで人体模型を見ているかのように、かわいいようでいながら、ちょっとグロテスク。
 ◆何枚も何枚も、同じ画しか描かない人もいる。同じ画ではあっても、ごく微細なところではちょっとばかり異なっていたりするのを見つけるのも楽しみ。
 ◆画面一杯に、もの凄く小さな漢字が敷き詰められているのにもびっくり。まるで米粒に文字を描くが如くの作業に、気が遠くなりそうだ。
 ◆乳房や男女の性器がグロテスクに描かれた画もある。<人は性衝動(リピドー)からけして逃れられない>というのがボクの持論だが、まるでそれを実証するかのようなそれは、思春期特有の好奇心と嫌悪感が同居する。
 ◆街で見かけた<文字>を次々と書き留めた雑誌の1ページ。よーく目をこらして眺めれば、誰でもが知っている単語が止まることなく連なっていて驚かされる。

 どの作品も脅威に値するが、多くのものに共通するのが、執拗な繰り返し。
 まるで止まらなくなったバレリーナの回転運動(『赤い靴』という映画があったっけ)を連想させる。
 時間と労力を秤にかければ、普通なら途中で諦めたくなるはず。しかし、彼らにとって、過剰は必要なことなのだろう。過剰でなければならないのかもしれない。
 こんな美術作品を観せられたなら、プロの美術家はどうしたらいいんだろう?
 ・・・ねばならないという領域において、彼らと対等でいられる人がいったい何人存在するのだろうか?
 
 この展覧会からは、美術と自分との関係性を再度考えざるを得なかったりしてしまうのだ。
 ある意味、恐ろしい。


 
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『写真とボク』(植田正治写真展) [アート]

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 前回に引き続き、埼玉県立近代美術館を訪れた。
 その時は『アンドリュー・ワイエス展』で、今回は植田正治の写真展である。

 植田正治という名前を耳にしても、
 「あ、あれね!」
 と即答出来る人は少ないだろう。しかし、彼の撮影した写真を見れば、
 「うん、知ってる!」
 と、たいがいは答えるのではなかろうか。
 砂丘をまるでカンバスに例え、写真でシュールリアリズム的な絵画を描いた作風は、唯一無二だ。

 今回の展示では、デビュー作から晩年の作品までを余すところなく紹介していて、とても好感の持てるものとなっている。
 当然、初期から順序立てて紹介されるわけだが、全体を通して眺めた時、改めて、この人は最初から最後まで、終始一貫して変わらないことが良く分かる。時代とともに変化してゆくのも才能なら、かたくなに変わらないのもまた才能なのだと、そんな思いを強くする。
 1930年代半ば~1980年代半ばまで、戦争を挟んで、日本の価値観は180度変換してゆく。にもかかわらず、撮られた作品に流れるポリシーはどれも不変であり普遍なのだ。これは実は物凄く大変なことに違いない。

 そんな植田の写真を眺めながら気がついたことが2つ。
 ひとつは、60年代後半から70年代全般にレコードジャケットをアートの域にまで高めたヒプノシスというデザイン・チームへの影響の大きさだ。代表作でもあるピンク・フロイド『炎(Wish You Were Here)』の裏ジャケなど、パクリと言い切ってしまってもかまわないほどそっくりなのだ。彼の写真はヨーロッパでも評価が高いので、絶対に見ているはずだ。
 ふたつめは、寺山修二の映画『田園に死す』の画面作りにその影響が見て取れる。砂漠を含む、日本的でありながら同時にどこにも属さない無国籍な雰囲気などまさに同じ臭いがする。
 それ以外にも、砂漠に配した人の作為的なポーズをモチーフにした写真、ミュージック・クリップ、CM等、調べたらきりがないほどだ。

 生涯、自分の好きなものしか撮らなかったと言われる植田。
 ≪寝ても覚めても写真のことばかり考えていた≫
 会場に掲げられた上記の言葉を、飾られた写真が証明している。

 
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『これは本ではない』(うらわ美術館) [アート]

 さて、ランチ&ビールを終え、次の目的地、浦和美術館へ向かう。

 浦和には先に訪れた埼玉近代美術館と、このうらわ美術館の2館が、隣同士の駅に存在するという稀な地域なのだった。
 昼ビールでちょっぴり酔いながら、地図を手に歩く。途中、交差点に立っていた警官に道を尋ねる。

 ビルの3階にあるうらわ美術館それほど大きくはないけれど、シンプルな作りだった。
 ここで開催されているのが、『これは本ではない』と名付けられた、ちょっぴり風変わりな展覧会。
 ↓ こんなチラシ。


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 ユニークなのは、<本ではない>とありながら、ブックカバーには<本である>と、ぬけぬけと書かれているところ。ふん、ふん、こりゃあ、天邪鬼根性を刺激するぜ!

 入館料を払って会場に入る前に、展示スペースがあり、ちょこっと覗いてみると、床一面に何やら置かれている。顔を近づけてよーく見ると、草花や昆虫たちだった。針金で作ったスタンドに張られている。きっと森を模しているのだろう。まさに足の踏み場もないとはこのことだ。
 フムフム、、、と、感心していると、美術館員の方が、
 「天井にもあるんですよ」
 と、教えてくれた。
 見上げると、あれまあ、、、天井一面に、こちらは蝶が張り付けられていた。
 これらは百科事典等に描かれたものを、ひとつひとつ切り取ってたものなのだ。まさに気の遠くなる作業。
 「まるでドミノ倒しのドミノみたいですね」
 などと、しばし雑談する。
 美術館で美術館員と雑談するなんて、多分、初めてに違いない。
 
 展示室に入ると、一般的な《本》という概念からはいささか外れた作品群が待ち構えていた。
 レンガに新聞紙を転写したものが、重ねて並べられていたり、陶器で出来た本や、鉄で出来た本、さらには、水に浮かぶ本、沈む本、、、。
 たかだか《本》とはいえ、作家たちの考え出す《本》は、まさに千差万別。

 電子書籍よろしく、本の形をしたモニターに、次々に流れる言葉が、実は聖書に書かれているそれだったり、焼かれて黒焦げになった本が、まるでキャンプファイヤーよろしく、積み上げられていたり、『2001年宇宙の旅』のモノリスよろしく、黒い巨大な円柱がそびえ立ち、その周囲をゴミ屑となった本が取り囲んでいたりと、迫力ある大作もあった。
 そして、入口横の展示スペースで見た切り取られた無数の蝶が、展示室の壁全面を用いたガラスケースに!!!
 まさに圧巻!!!

 電子書籍というメディアが話題になっている昨今、昔から面々と続く《本》という物の概念を今一度問い直すこの展覧会は、《時代と美術は並行して走る》を具現化した、まさに旬な企画と言えるだろう。


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『アンドリュー・ワイエス展』 [アート]

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 会社を休んで好きなことを好きな時間にしたくなった。
 なので有給休暇のスイッチ、オン!
 ・・・休み(笑)
 いやいや、そうじゃなくて、「免許更新」と「駐車場の変更届」という大変な業務をしなければならなかったわけだ。
 朝8時半には警察署へ行き(ゴールド免許だからね!)、手続きを終えて家に帰ってもまだ10時半。
 それじゃあ、残った時間で遊びに行こうと、、、まあ、そういうこと。

 で、何をしたのかというと、久々のアート。それもワイエス。
 このあたりに、今一つ悪者になれない性格の良さが垣間見られるのだった。基本的にマジメなのである。

 過去、ワイエス展には2度ほど足を運んだことがある。
 一度目は「クリスチーネの世界」を見に、二度目は「ヘルガ展」だ。
 三度目になる今回は、「オルソン・ハウスの物語」と名付けられた、素描の数々を紹介するもの。それも埼玉県朝霞市の丸沼芸術の森所蔵というのだから、いやはやたいしたものだ。

 ご存じの通り、ワイエスはアメリカの田舎の風景を描く画家として、世界的にも大変高い名声を獲得している。
 題材はいたって素朴で、荒涼とした風景とそこで暮らす人たちの姿を、冷徹とも思える筆さばきで描き出す。
 今回は素描が主で、その点からすると、彼の絵の骨格が、より鮮明に浮き彫りにされていて、そのデッサン力の飛び抜けた技量に、改めて驚かされる。
 さらに、一枚の何気ない牛舎や農機具などの絵を完成させるのに、実に多くのデッサンを描いていることが分かり、感心させられた。
 時に構図を変えたり、ドアならドアの部分をいくパターンか変化をつけて描いたりと、シンプルな完成形を得るための試行錯誤の数々には、まったくもって納得するばかりなのだった。


          ★          ★          ★          ★

 観終わったら一時を過ぎていたので、次の目的地のある浦和駅へ。
 駅ビルの二階にある「ぶんか亭」なる、ちょっぴり懐かしい食堂で日替わり定食をいただく。
 この日はフライ定食で、680円。作り置きの冷たいフライが出てくるのかなあ、、、と思っていたら、ちゃんと揚げたてで、美味しい。ついでにランチビール300円をオーダーすると、ちゃんと中ジョッキで出てきて感激!しめて980円也。昼ビールも飲めて1000円でお釣りがくるのが素晴らしい!!


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『不在の部屋』(寺田真由美展) [アート]

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 寺田真由美の作品はいっけん薄暗い室内を撮影したようなスナップ写真とも思えるものの、近くで凝視してみると、室内だと思っていたものは実はミニチュアの模型であることがうかがわれる。それを念頭に置いて再度作品を眺めてみれば、リアリティとフィクションが仲良く共生しあったような不思議な風景が立ち上ってくるのにハッとさせられる。

 白黒写真に映し出されたそれらの多くは、部屋の中から窓を通して眺める景色だったりする。
 写真を撮るカメラの視点がすなわち作品を眺める鑑賞者の視線と同化し、あたかもこちらが部屋の中に入り込んだかのような錯覚に陥る。
 その視線の先には、密やかな物語が隠されていて、誰もいないにもかかわらず、数分、数時間前には、きっと誰かがいたであろうと思わせたりする。形にならない痕跡、それは雰囲気と言い換えてもいいかもしれない、かすかな残り香のようなものでもあり、人肌の消えかかった残温のようでもある。
 ベッドには人が寝ていたであろう痕跡を表す、布団の微妙な乱れが見て取れるし、部屋の入口にポツンと置かれた傘には来訪者の存在が、庭へ続く扉には、そこからサンダルでも突っ掛けて、ちょっと周囲を見に出た人の後姿が思い浮かぶ。
 寺田真由美の作品に関しては、不在であるがゆえに、逆に存在を感じ取れてしまうのだ。

 それにからめて言うと、カラーではなく白黒ゆえ、カラー写真に比べて情報量は圧倒的に少ないはずなのに、想像の余地があるゆえ、圧倒的な情報を自らが作り出すことを可能にしている。あたかも50年代に製作されたヨーロッパ映画のような芳醇に満ちている。
 どうやらたった一枚の写真にもかかわらず、寺田真由美のそれには、物語がいっぱいつまっているようだ。

 

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『平面の空間』(若林砂絵子展) [アート]

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 練馬美術館は地味ながら良質な作品を展示するところで、何度か足を向けている。
 今回は現代美術の今を紹介する<PLATFORMシリーズ>の栄えある第一回目。若林砂絵子と寺田真由美の二人展となる。

 【若林砂絵子展】
 比較的大きめなカンバスに、赤、緑、黄色といった原色が、形という枠を取らずに塗り込められている。その上に線や帯のようなものが丸まったように無造作に描かれている。パッと見には完全な抽象画である。抽象画でも作品にタイトルがあればそこから作者の意図を汲み取ることも可能だが、作品にはタイトルもなく、単に「untitled-works11」のようにまったくもってそっけない。
 しかし、抽象画が具象では得られないような、見る側の思考の広がりを喚起するのに対し、彼女のそれには抽象画と割り切ってしまうには漠然としない矛盾が内包されているような気がしてならない。
 画は完成してはいるのだろうが、どこか抽象画になりたくてなっているのではないような思いに囚われるのだ。
 「好きで抽象画をやってるんじゃないやい!」
 画の前にたたずんでいると、そんなむくれた子どものような声が聞こえてくるような錯覚に襲われてしまう。
 画家によって本当は具象になるべく描かれた画は、しかし、残念ながら具象になる前に成長を止めざるを得なかった。そんな割り切れなさが画から漂う。
 実は彼女は2008年に若くしてパリで死去している。彼女のアトリエから見つかった画には、曲線ではなく、直線現れ、描かれているのが室内の一角であるように見える。直線が交わった先がドアだったり、平面で構成された画面の中に角度の違った視点で眺めたテーブルのようなものがあったりと、遠近感のようなものが描かれ出していた。

 「untitled-works」とだけつけられた作品群からは、若林砂絵子の理想の到達への過程を垣間見せる。画家は、いや、あらゆる芸術に携わる者には、<結果>と同等の<意義>が過程にもあるようにも思える。形上の完成が本当の完成とは限らないのが、彼女の画を見ればわかるはずだ。
 
タグ:現代美術
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『メモワール』(古屋誠一写真展) [アート]

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 最愛の人を失ってしまった人の心情とはいかなるものであろう?
 ましてやそれが自殺だとしたら・・・。
 
 現在オーストリアを拠点に活躍する古屋誠一氏は、写真学校を卒業後、ヨーロッパに渡る。そこでクリスティーネと知り合い、彼女をモデルとした写真を撮る。1978年に結婚。やがて長男が生まれる。
 生活は不安定だったものの、親子3人での生活は喜びに満ちたものであったのは想像出来る。しかし、1985年、彼女は自らの意思で死を選ぶ。

 展示された写真には、バスタブで泡だらけになるクリスティーネ、上半身裸の彼女のポートレイト、幼い息子を胸に抱き、カメラを見つめる姿などがある。いっけんどこにでも見られるごく普通の写真である。取り立てて目を引くような箇所もない。
 それでもどことなく見る者(この場合、あくまでボク個人にとって)を不安にさせる箇所が2つある。
 ①髪型がころころ変わる
 無造作なストレートだったり、前髪が切り揃えられていたり、短髪だったり、死の直前には坊主頭だったり、女性はそれほど頻繁には髪形を変えないものではなかろうか? 変える時は大きな決断を有するもののはずなのを考えると、どこか精神的な不安定さを感じてしまう。
 ②笑顔がない
 撮影者の何らかの意図を敏感に感じ取っていたとしても、展示された写真のほとんどに笑顔がないのは不自然だろう。一人でいても、子どもと一緒でも、じっとカメラを覗き込むような視線は、彼女が心に抱えたいいようのない暗部を端的に表しているように思えてならない。いつ、どこに、誰といても、まるで完全な一人であるかのように、孤独なのである。

 展覧会場ではクリスティーネの自殺の原因については明言していない。それでも会場内の椅子に見本として置かれたパンフレットを読んで想像するに、どうも鬱病だったのではないか。それも彼と知り合ってから発病したのではなく、その前から患(わずら)っていたようにも取れる文章があった。
 クリスティーネの死によって、古屋氏は彼女が生きていた時よりも、逆により強くその存在を意識せずにはいられないようになる。
 彼女には彼女なりの自殺に至る理論があったのだろうが、その説明も十分にされないまま、存在それ自体の消失。それによって襲いかかる中断された生の存在意義。はたして死なれた者の想いはどこへ向かえばよいのだろう?

 古屋氏は何年も何年も、長い年月、考え続けた。それがこの『メモワール』というシリーズに結束する。
 考えれば答えは得られるのか? 得られないのか?
 最後のと謳(うた)われたこの『メモワール』が、失われた者へのレクイエムとなるのか、はたまたGHOST(幽霊)となって、これからも永遠に彼を捕えるのか? それは追々明らかになってゆくのかもしれない・・・。


 *東京都写真美術館にて7月19日まで開催中
 
タグ:写真
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第29回損保ジャパン選抜奨励展 [アート]

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 『タマラ・ド・レンピッカ展』を観た後に、続けてこの展覧会へ。
 怒涛の2連打、実は展覧会巡りって、かなり体力ならぬ知力を使うから大変なんですね。その意味ではミステリーと同じなのかも。作者の意図したことを読み解かなくてはならないから。

 年一回のこの展覧会も、気づけば3回目の観賞。
 なかなか日本の若い人の作品を観る機会もないので、会場に行くのがそれなりに楽しみに感じられてきたこの頃。入場料も大人500円とリーズナブルだし、作品数も多いので、西新宿の高層ビルの42階からの眺めも併せて、のんびり観賞と洒落込めるのがありがたい。

 それにしても、一言で絵画と言っても、実に様々な表現が存在しているのに、改めて驚かされる。
 例をいくつか挙げると、
 ◆水から頭半分を出したサイを描いた作品では、サイの動きによって波立つ多種多様な水の文様を描いていて感心させられる。
 ◆わざとボカシた風景写真というのは、時々見かけるが、それを絵画で表現すると、またひと味違った雰囲気になる。落ち着いた色調で統一された倉庫のような場所。いつかどかかで観た光景はノスタルジーを感じさせるとともに、どこかひんやりとしたものを内包している。
 ◆日本画の技法を使った、白地に、それこそ気の遠くなるような微細な模様のようなものを描き込んだ画には、その根気を考えただけで、クラっと来てしまいそうだ。
 ◆潰れたトマトの赤い汁が、おもちゃの兵隊がぶっ放す大砲の火花になっている絵もとてもユニークかつ皮肉いっぱいで、分かりやすい上に奥が深く、観る者を唸らせた。

 数々の作品(立体作品もあり)を眺めながら、とにかく何が正解なのかなどない、と思った。
 それでも、自分にとってはこの手法が一番表現の核心に触れられるとの思いで、作者は絵筆を取る。
 描かねばならないという心の衝動を最大の武器にして。

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『タマラ・ド・レンピッカ展』 [アート]

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                             『タマラ・ド・レンピッカ展』


 自称「有給休暇を有意義に使おう会」会長(?)であるワタクシの休日はけっこうたいへんだったりする。
 休日にもかかわらず、いつも通りに起きて、着がえて、朝食を食べる。まったく会社に行くのと同じ行動なのだ。
 この日も毎度毎度の慣習に従い、勝手に身体が動く。家を出る時間は一時間ほど後ではあるものの、それでも朝の9時半前には出発するのだった。

 美術館は平日の午前中にがモットーなので、渋谷駅に降り立ったのが午前11時。
 そのまま真っ直ぐにBunkamura ザ・ミュージアムへGO !
 一度観てみたかったタマラ・ド・レンピッカ作品を堪能しようと、期待に胸を弾ませて、運ぶ足も自然に速くなるというものだ。

 レンピッカはロシアの女流画家で、その作風はキュビズムの影響から出発し、そこにロシア構成主義をつけ足して、さらにパリの香水をシュッシュと振りかけたとでも言えば想像出来るだろうか?
 活躍のピークは1020年代後半~30年代の半ばまで。
 もちろんその後も人気の浮き沈みはあるものの、晩年まで絵筆を折らなかった。初期のつたない絵はともかく、後期の絵は、時に静物画だったり、宗教画の要素が色濃く滲み出していたりと、正直、焦点が定まらず、観ていて辛くなる。画家の迷いがそのまま絵に反映されているのだ。
 それも美人画家として注目され、パリに亡命し、花形女流画家としての栄誉を一身に受け、絵のみならず、ファッションの分野においても、自らの美貌でもって注目された絶頂期は、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだったに違いない。
 夫は金持ちの伯爵だし、しかし、同性愛者としての側面から、愛人は女性だったりもする、時代の最先端を突っ走る、まさに時代を先導した一人だった。

 第2次世界大戦には、今度はアメリカへ移住。しかし花形女流画家もいつしか時代に忘れ去られてゆく。
 それと時を同じくして、鬱病にかかり、作風もしだいに変化を見せる。時代を引っ張っていたレンピッカがいつしか時代を追いかけざるを得なくなった時の無残さが、絵をつまらなくしてしまった。
 誰もワイエスのような絵を彼女に望んではいなかったのに・・・。

 こうしてレンピッカの生涯に渡る作品を見渡して改めて思うのは、わずか10年にも満たない絶頂期、それは82歳まで生き長らえた生涯からすれば一瞬ではあった。しかし、その一瞬の間に残された作品の数々は、彼女ならではの唯一無二の魅力が凝縮された、どれも傑作と呼べるほどの高いクオリティを保っているのを否定する者はいまい。

 そう考えるなら、レンピッカはまさしく美の巡礼者であったと言えよう。


 *レンピッカ展は5月9日まで開催中
 
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『マッキアイオーリ展』(イタリアの印象派) [アート]

 3月13日(土)、夕方から休日出勤の為、家を出る。タダでは転ばぬワタクシゆえ、かなり早い時間に家を出て、仕事前にひと遊び。遊びの達人(?)は時間作りの達人でもあるのだった。

 駆けつけた『マッキアイオーリ展』は、閉展前日の土曜日ではあるものの、まだ午前中(11時頃)だったので、それほど混んではいなかった。
 会場となっている東京都庭園美術館は、アールデコ調の建物がとてもモダンで、研ぎ澄まされた美意識を肌で感じるにはもってこいの場所だ。

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                         ★


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 フランスの印象派に先立つこと20年。イタリアではこれまでの絵画表現とは違う様式を模索する画家たちがいた。フィレンツェのカフェに集った彼らは、自分が描かねばならないものを時代の中に求めた。
 その頃、イタリア半島にはいくつかの国家が存在していた。それを統一し、一つの国家にしようという機運が次第に高まっていた。若い画家たちは、サロンから戦場に赴き、目の前で起きている事実をありのままに描写しようとした。
 後に自然派とも呼ばれるようになる、新しい芽の萌芽である。彼らは戦場となった地を多く描いたが、自然の太陽の光がもたらす強い陰影をキャンバスに塗り込めた。陰影と言っても、レンブラントのそれではなく、あくまで太陽光によるコントラストは色彩を明確にし、輪郭線もくっきりしている。今に例えるならハイビジョンテレビか?
 
 やがて戦いの後、イタリア半島は統一される。サロンのパトロンをしていた者は、郊外に広大な土地を得、そこを画家たちに開放した。
 そこに移り住んだ彼らは、溢れる自然に囲まれた生活の中で、より伸びやかな風景がを描くようになる。モチーフは戦いのひとコマから緑溢れたより生活に密着したものに変わっていった。それは木陰の下にたたずむ娘たちであったり、牛追いだったり、水を汲む女性や、ニワトリを追いかける犬であったりした。平穏な日常こそが幸福をもたらすのだとこっそり絵を観る者に囁くように。

 画家たちにとっては、この田舎での生活には満足のいくものであったが、作品の評価という点においては未だ正当に評価されてはいなかった。その為、彼らはイタリアを捨て、新たに海外に活躍の場を求める者も多かった。このことが強い結束を誇っていた「マッキアイオーリ」たちを結果的にバラバラに解体することとなってしまった。運動体としての終演だ。

 「マッキアイオーリ」たちの活躍はわずか10数年で終止符を打った。それはあまりに短いものではあったと言わざるを得ない。なので時代の中に埋没し、本国でも忘れられた存在となっていた。
 しかし、近年、にわかに再評価の機運が高まり、現在ではイタリア絵画における重要な存在の一つと認識されるようになった。やっと正当な評価を得たわけだ。

 展覧会の最後に飾られた一枚、『水運びの女/フランチェスコ・ジョーリ作』。
 たとえ「マッキアイオーリ」の画家たちが、この一枚しか残さなかったとしても、十分に歴史に名を残す価値はあった。そう思わせるほど、その絵は素晴らしかった。


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 *「マッキアイオーリ」=マッキア派の意。マッキ(斑点)を用いた斬新な手法から派生した言葉

 
タグ:絵画
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懐かしのフランス名画ポスター展 [アート]

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 あるある、見たことあるよ、これ!
 
 赤坂にあるホテルニューオータニの6Fにあるニューオータニ美術館では、ただいまグラフィック・デザイナーの野口久光氏の生誕100年を記念して、彼の残した数々のフランス名画のポスターを紹介している。

 野口久光という名前は知らねど、氏の描いたポスター類を見れば、ああ、あれね! と、誰でもたちどころに納得するはずだ。

 映画が "名画" と呼ばれた古き良き時代。
 無声映画(サイレント)は音のあるトーキー映画へと移り変わってゆく。
 ちょうど1935年あたりだろうか?
 それに呼応するかのように、映画史に名を残す傑作の数々が生まれた。
 
 『にんじん』(1934)
 『我らの仲間』(1937)
 『望郷』(1939)
 『天井桟敷の人々』(1952)
 『いとこ同士』(1959)
 『大人はわかってくれない』(1960)
 などなど・・・。

 数え上げたら切りがない。それこそ名作のオンパレードだ。

 そんな名画の雰囲気を余すところなく伝えるポスターは、今のようにプロモーション・ビデオのなかった時代には、一番の宣伝媒体でもあったろう。だからポスターの存在はとても大きなものだったに違いない。
 ポスターを見れば映画が分かる。
 まさにその通りだ。

 それと同時に、会場で実際に描かれたポスターを眺めていると、名画には名監督と名優が付き物なんだなあ・・・ということが良く理解出来る。
 1930年代から活躍した名匠ジュリアン・デュビビエの作品数の多さも驚きだが。そのどれもが名作の誉れ高いのには驚かされる。彼以外でもジャン・ルノワールがいて、50年代にはルネ・クレマン、フランソワーズ・トリュフォーがいた。
 役者だって負けてはいない。ジャン・ギャバン、ジェラール・フィリップ、ジャン・マレー、一癖も二癖もある役者の目白押し。美男だからっていい役者だとは限らないぜ! と、ジャン・ギャバンが言ったかどうかは知らないが、まさにその通り。

 学生の頃はビデオなどまだなかったので、映画館に通うしかなかった。それも名画座。お金は当然ないので、2本立て500円の3番館待ち。今では懐かしい光景だ。
 それでも映画によって教えられたことはもの凄く多かったし、学校サボって名画座通いをしたおかげで、成績は悪かったけれど、色々なことを知ることが出来た。
 歴史は夜作られる、、、なんてね!!!

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